紫陽花の向こうに
瑠衣の15回目の梅雨が来た。
今日も雨音が耳をくすぐる。
兄は地元の中小企業に務め、夜の8時には帰ってくる。あんなにうるさかった兄は一日、一言喋るか喋らないか。それくらい無口になっていた。瑠衣としては嬉しさ半分、寂しさ半分と言ったところだ。

兄が無口になった原因は父の死…であると思う。(あくまで瑠衣の推測だ。)
3年前、父は脳卒中で倒れた。
前日まで元気に酒を兄と交わしていた父は
朝起きて、ばたりと倒れた。
我が家を大きく支えていた幹はぽきりと折れてしまった。幸せとはこんなにも静かに去っていてしまうのだろうか。こんなにも早い勢いで過ぎ去ってしまうものなのか。
いつの間にか小さくなった子供部屋。
1人で泣いていると、いつの間にか兄が横にいた。
「人って死ぬために生きてるんや。
昔父ちゃんが言うとった。
生まれる前に神様と約束すんねん。
あんた、精一杯生きんねんでって
ほなら、精一杯死ぬねん。
そう言われて生まれるんや。
せやけど父ちゃんあかんな。
こんなあっさり逝かれちゃダメやんな」
兄はそう言って、笑った。
いや、笑っているふりをした。
「目、涙たまっとる。
誤魔化せると思ったら大間違いやからね。
何年一緒におると思うとるの。
バカ兄貴。」
それが2人でバカ笑いした最後だった。

__兄はいつの間にか帰って来ていた。
「瑠衣。飯」
兄は重い口をやっとのこと開く。
「もう、帰ってきてたんや」

無言。
熟年の夫婦のようだ。
「兄ちゃん、今日どうやった?」
「…」
「部長さん、パワハラで捕まったんやて?
大変やねぇ。」
「…」
「兄ちゃん彼女とか、作れへんの?」
「…」
最近は瑠衣の方がお喋りだ。
兄は頷いたり、何もしなかったりする。
中学生の頃とは随分変わってしまった。
「たっだいまー」
その時、母が帰宅を告げた。
50半ばの母だが随分元気が良い。
父が死んでから、母は元気を偽るようになっていた。本人に自覚がないのでタチが悪い。
「おかえり」
「…」
ニコニコと笑う母、その反面に真っ青な顔の兄。それに馴染もうとする瑠衣。
実に滑稽な家族ごっこだった。
そんな光景が何だかとても空虚で、瑠衣は寂しくなった。


夜。
さーさーと雨が降る。
今夜の雨はなんだか冷たい音がして
嫌な予感がもやとなり、瑠衣の頭で広がった。


とん、とん、とん。

規則正しい足音がする。
なんだろう。

とん、とん、とん。

廊下からだ。
私の部屋に近づく。

とん、とん、とん。

みえた。

黒い物陰が私に近づいてくる。
それがなんなのか理解するのに時間はかからなかった。それなのに私はぎゅっと目をつむってしまった。見るのが怖かったのかもしれない。





「瑠衣、すまんな。」




兄だった。

世界一で1番小さな声で囁き、世界で1番暖かい春のような手で頭を撫でてくれた。
どうしてここにいるのか、どうして謝るのか、どうして撫でてくれるのか。
よく分からなかった。しかし暗闇の中、薄目で見た兄は今まで見た男の中で1番に美しかった。




そして次ぐ日世界一悲しい朝を迎えることになる。その朝は嵐の後のように静かだった。
兄の不在に気づいた母は偽りの元気がふっと消えてしまった。頬の皮膚がだらんとたれ、
表情筋は全く機能していない。
おはようの一言も交わさず、無心にコンフレークを混ぜていた。瞳に輝きを感じない。
まるで廃人になってしまったようだ。
無理もない。
この3年そこらで家族が2人、家に居ないという現象が起こったのだ。
母のストレスは莫大なものだろう。
瑠衣は兄の行方が気なって仕方がなかった。
しかし、母は探すなと言った。
間が抜けた声で「探すな」とだけ。
あの子はもううちの子じゃない。
探したって無駄。
後からそう付け加えた。

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