短編オリジナル「朝」
 おはよう、という言葉をかけられなかった朝がない。別に朝に弱いわけでもないのに、目を覚ますと、すぐにおはようと言われる。私の起床時間は決まっていない。6時から7時の間にふっと目が覚めるのだ。それなのに彼は必ず、私が目を開けてすぐ、おはようと言うのだ。一体彼は何時から起きているのだろうか。

「何時に起きてるんですか?いつも」

 食パンをトースターに入れながら聞く。彼は私の隣でコーヒーを淹れてくれていた。

「さあ。前にも言ったけど、起きた時刻なんて、気にしないから」

 聞いた時は毎回、こうやってはぐらかされる。でも、気になるから聞いている。いつか答えてくれないかと期待しながら。

 狭いキッチンで、二人並んで朝食を準備する。

「ミルクいる?」
「あ、はい…」
「砂糖は?」
「…なんでいつも聞いてくるんですか?」

 彼はコーヒーにミルクと、続けて砂糖を入れながら言った。

「結構、楽しいから。それで、砂糖は?」
「もう入れてるじゃないですか」
「答えて」
「…お願いします」
「よくできました」

 焼き上がったトーストにバターを塗る。リビングにバターの香りが広がった。彼はひと足先に席に着いていた。ランチョンマットの上にコーヒーだけ乗っている。私はその隣にトーストの乗った皿を置いて、彼の向かいの席に着いた。

「いただきます」

 私はトーストから先に口にする派で、彼はそれを頬杖をつきながらじっと見てくる派だった。

「じろじろ見られると食べにくいって、毎日言ってますよね」

 今日はいつもみたいに照れてやらんぞ。そんな強気で言ってやった。

「いいじゃない、俺の自由」

 自由だなんて、ずるい言葉。私は彼から目を背け、黙々とトーストを食べた。数分して、ようやく彼がコーヒーに手を伸ばした。

「あち…猫舌には辛いなあ」
「ふーふーすると少し冷めますよ?」
「じゃあ、して?ふーふー」
「自分でしてくださいよ」
「ふーふーだなんて、あと1ヶ月で三十路の男には出来ない」
「私ももうすぐ三十路です」
「3年は長いよ、もうすぐじゃない。ほら、早く」

 これはいつもではない展開。私は身を乗り出してふーと息を吹きかけると、湯気が彼の方に流れた。

「湯気、こっちに来ちゃったじゃん」
「人にさせるからですよ」
「じゃあ、こっちにきてよ」
「食事中は立ちません。行儀悪いんで」
「頑固はモテないよ?」
「いいんです。モテる必要、ないですし」

 彼はまたコーヒーを啜った。まだ熱かったのか、目が細くなった。それを見て笑うと、彼はうるさいねと目を逸らした。

 朝食が終わって、私は寝室に向かった。彼は女の子は準備に時間をかけなきゃいけないと、いつも朝食の片付けをしてくれる。私はスーツに着替え始めた。

 彼の家に居候を始めて、一年半くらい経っただろうか。彼は私の先輩ではあるが、直属ではない。私の直属の先輩が彼の友人で、その先輩といる時に彼と出会ったのが、この交際の始まりだった。彼は穏やかな物腰で、あまり怒らないから若手からは人気らしいが、私の先輩や彼の同期の社員が言うには冷酷な奴らしい。失敗をした部下に大丈夫だよとか言ってる割に、評価はバッサリ下げて部長に報告しているとか。うちの部の先輩は普段は厳しいがそういうところは大目に見てくれたりもするから昇格しやすいそうだが、彼の場合は真逆だ。失敗すればするだけ、いつまで経っても評価は上がらないし、部長にも期待されなくなるそうだ。ああ良かった、部下じゃなくて。メイクが終わったちょうどその時、彼はノックもせずにドアを開けた。スーツ姿の彼が、こちらを向いてにっと笑った。

「今、俺のこと考えてたでしょ?」
「部下じゃなくて良かったって考えてました」
「なにそれ、どういうこと?」

 彼は壁に凭れながらむすっとした顔を見せた。私は髪を一つに纏めながら答えた。

「だって、怖いって聞いてますから」
「優しいで有名なはずだけど?」
「いいえ〜、私が聞いたのは大丈夫とか言いながらズバッと切ってるって聞きましたよ?」
「それ、藤沢からの入れ知恵でしょ?」
「そうですよ。先輩から聞いたんです。昼休みとか、よくあなたの話してますよ」

 すると彼はこちらに寄って来て、むすっとした顔を近づけてきた。

「あいつの話しないで」
「…あなたが名前出したでしょ」
「妬いちゃう」

 三十路前の大人びた顔の男が『妬いちゃう』だなんて可愛こぶっちゃって。ふーふーはしないのにぶりっこはするとか、変よ絶対。だめだ、笑っちゃいそう。私は慌ててそっぽを向いた。

「ほら、こっち向きなさい」

 彼は頬を掴んで無理矢理顔の向きを変えて来た。

「目を逸らしてもだーめ」

 頬を掴む力が強くなったから仕方なく目を合わせると、彼はそのまま唇を重ねて来た。せっかく綺麗に塗ったリップをきれいさっぱり落とすように唇に舌先を沿わせて、そうして中に入って来た舌は私の舌を追ってきた。

「…わかった?だめだからね、言ったら」
「あなたから言って来ても?」
「そう。俺は良いけど君はだめ」
「意味わかんない」
「それで結構。じゃ、先に玄関行っとくね」

 彼が部屋を出て行く。私は急いでリップを塗り直すと、カバンを持って部屋を出た。

「あ、そろそろパンプス替え時だね」
「そうですか?まだいけそうですけど」
「買ってあげるから。今度見に行こっか」
「ありがとうございます」
「それとさ、急いでたから仕方ないと思うけどね」

 彼はまた、今度はさっきより優しく口付けをしてきた。

「色気出てたよ、リップ濃いから」

 そう言いながら、彼は自分の唇についたリップを親指で拭った。もう、うまく前を見れない。

「あれ?チーク濃いよ?」
「えっ?濃すぎですか?」

 慌ててカバンを開けて、化粧ポーチの中から鏡を取り出す。

「嘘。冗談」
「え?」
「照れてたでしょ」

 はあ、もう。

「…うっざぁ」
「出た、お得意のちくちく言葉。モテないぞ〜」
「うるさいうるさいうるさい…」

 助手席の窓に、なんとも言えない、赤くだらしない顔が映っていた。
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