九羊の一毛


真っ黒な瞳孔に呑まれそうになった。
一瞬呼吸を忘れて、じっとこちらを窺うような視線に戸惑う。

これは多分、ノーと言ったらいけない気がする。
脳のどこかで黄色信号が光って、私は声を出すより先に何度も頷いた。

すると狼谷くんは途端に頬を緩めて、「良かった」と呟く。


「羊ちゃんが看てくれるなら、心置きなく風邪引けるね」

「えっ!? い、いや……風邪は引かないのが一番だよ!」

「うん。でも、」


彼が今の今まで肩に置いていた手を、僅かに浮かせる。その人差し指が私の頬をなぞった。


「羊ちゃんが俺のこと気にかけてくれるなら……引いちゃおうかな」


耳元で囁かれた声が熱い。顔が赤くなったのが自分でも分かって、耐え切れずに俯く。
今日の狼谷くんは、やっぱりちょっと変だ。変、というか、距離感が近いというか。


「だ、だめだよ……体はちゃんと、大事にしないと……」


やっとの思いでそう返すと、狼谷くんは「そうだね」と肯定して手を退かした。
それに少しほっとして、心の平和が戻ってくる。

彼の家にはそのあと五分ほどで着いて、本当に近いんだなあと羨ましくなった。


「ありがとう、送ってくれて」

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