お仕えしてもいいですか?

「屋敷《やしき》さん」

 資料室にファイルを持っていく途中で名前を呼ばれ背後を振り返ると、そこには犬飼が立っていた。コツコツと靴音を鳴らしながら近づいてくると、口元を手で隠しながら木綿子に話しかける。

「今日の夜、空いてる?」

 犬飼は期待を込めた眼差しで木綿子を見つめていた。

「この後、一件だけ寄ったら直帰出来そうなんだ。良かったら今晩どうかな?」

 犬飼はウキウキと楽しそうに笑いかける。

 ここのところ残業と出張が続いていたため、ふたりで会う機会になかなか恵まれていなかった。犬飼としては久々に木綿子と過ごす時間を持ちたいと思うのも自然なことだろう。

「えっと……八時過ぎには行けると思います」

 木綿子は残っている仕事と自分の処理能力を割り算して、犬飼に到着予定時間を伝えた。

 待ちきれなかったのは木綿子も同じである。犬飼にこんな風に求められて嬉しくないはずがない。紅潮する頬をファイルで隠していることは目敏い犬飼にはバレバレである。まだまだこの状況に慣れない木綿子の姿を見て犬飼は目を細めた。

「じゃあ、楽しみにしてる」
「はい」

 犬飼がその場を立ち去ると木綿子は大きく息を吐いた。犬飼と会社でこういう話をすることは一向に慣れない。誰かに聞かれているのではないかと、つい冷や冷やしてしまう。

 木綿子のせいで犬飼に悪評が立ってしまっては立つ瀬がない。

 幸いなことに犬飼が立ち去った後の廊下には木綿子以外誰もいなかった。

 連絡先を知っているのだから携帯にメッセージを送ってくれればいいのに犬飼はそうしない。他人行儀にメッセージだけをやりとりするような味気のないことはしたくないと言う。

 顔を見て直接話したいからと、いつも木綿子を少しばかり困らせる。

 初めて食事に誘われた時もそうだった。

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