泥の花
かぶりつきの客には匂いを嗅ぐだけじゃないお楽しみがある––––。
 最前列のテーブルはステージとくっついている。だから、ダンサーがピルエットすれば、湯気のほとばしった汗が飛んで来る。舞台袖へハケて行ったダンサーを目で追えば、楽屋の中が丸見えで、彼女らは次の出番のために早着替えだ。みんな肌色のツン一丁で、乳房をブルンブルン振り乱してバタバタやって、裏方の男がいようがいまいがおかまいなしだ。
 聖也––––このあたりではネズミと呼ばれているまだ二十代半ばの若造が、舞台袖に近い客席入り口の幕の隙間から、スポットライトの漏れた光が照らす客の顔にあたりをつけている。
 もうすぐ電車もなくなる頃だ。ショーがはねたら、聖也はここでみっちり仕事をさせてもらう。彼は今、街を歩けば顔がさす、ちょっと名の知れた使いっ走りだった。
 酔った客を出てきた順に白タクへと放り込む。客より先に店を出る不埒なダンサーからは、足代をハネて送りに乗せる。週末ともあれば、まだ遊び足りない輩が蛍の光を聞いた後でも、客席にへばりついている。だから、聖也はなじみのダンサーを外で遊ばせておいて、客と連れ立った先で彼女らと落ち合うと、後は成りなのだ。
 おなじ水商売でも、自分は泥水のほうだと、聖也は思っている。それは今にはじまったことじゃない、生まれた時からそうだったと、聖也は思う。十代で六本木へ流れ着いたような自分に、やれ飯だ、やれ服だ、やれ小遣いだと、面倒を見てくれた先輩の言葉が忘れられない。
「おい、おしゃかさんが乗っかってる葉っぱの名前、オマエわかるかよ。」
「なんすかそれ。葉っぱ?」
「蓮だよ、蓮。水の上の蓮の葉っぱにあれ、おしゃかさんが乗ってんだ。」
「へえ。それは知らねかったっす。」
「蓮ってよ、水の上に浮いてんのかと思ったら違うのな。ありゃ水の中の泥から生えてきてるってゆうじゃねえか。」
「へえ。そうなんすね。」
「でよぉ、おしゃかさん乗ってんだぜ。すごくねぇ?」
「そうすね。」
 その時聖也は、その話がさっぱり入ってこなかったが、なんとなく雰囲気から察して、先輩がものすごく感動しているのだということだけはわかった。
 いつしか聖也は自分が水商売の底の底にいて、泥水をすするような真似をしている時などに、先輩の話を思い出すことがあった。あんまりたびたび思い出すものだから、実はその話には何か大きな意味が隠されてあるのかと考えるようになった。だが考えてはみたものの、聖也にはおしゃかさんの偉さはわかっても、蓮の葉が何なのかさっぱりだった。足りない頭でいくら考えても埒があかないと、聖也は先輩にそのこころを聴きに行くことにした。と、その矢先––––いくらどこを探しても先輩は見つからないのだ。街の噂では、砂利とコールタールと一緒にアスファルトになって、どこかの道路に溶けているとかなんとか。ついにそのこころは、聖也に謎のままだったが、しかし––––。
「天上天下唯我独尊。」と、聖也は唱えてみるのだった。
「天上天下唯我独尊。」––––その声が虚空にむなしく響くのだった。



 天から華のような雪が降って来る。なんのことはない淡雪だ。––––季節はずれにもほどがある。
 営業が始まるまでの時間を盗んで、稽古を終えたダンサーが表へ飛び出した。薄汚れたピンク色のスウェットパンツの上に、黒いダウンコートを引っ掛けているだけだからそれとわかった。信号機のない二車線の道路を足早に、慣れた歩幅で横切って行く。
 表通りに面したカフェのガラス窓の向こうに、赤ん坊を抱いた女がいる。ダンサーの彼女が女から赤ん坊を受け取ると、しばらくして入れ違いに、今度は別の女がやって来た。彼女は新しい女に何やら話し込んで、それから腕をしきりに振り上げている赤ん坊の額へ、親鳥が雛鳥に餌を与えるような口づけをすると、一人で店から出て来た。
「よお、夏美じゃん。ほら、傘持っていきな。あんたは濡れちゃまずいから。」と、ビニール傘を握って立つ聖也が声をかけた。
「あら、いいんですか? でも、すぐそこだし。」
「いいからいいから。あんまり時間ないでしょ? さ、いこいこ。」と、聖也は彼女の袖を引っ張って行った。
 二人はひとつの傘の中で身をこごめながら歩き、聖也は声をひそめて、
「ねえ、こんな店の近所じゃまずいでしょ。あんたももう花形なんだから。」
 すると、彼女は目を丸くして、首をうなだれた。
「誰か知ってるのいるの?」
「……誰も知らないと思います。」
「まあ、俺はいいと思うけど、子守しながらってゆうのはあんたが持たないよ。実家は?」
「ワケありだから、実家はちょっと。」
「さっきのあれ、ベビーシッターでしょ? かわるがわるで面倒見てもらってんの?」
「そうなんです。なかなか落ち着かなくて。」
「 そりゃ赤ん坊も落ち着かないよ。」
「そうですよね。誰かいい人がいたらいいんですけど……。」
「だよなぁ。どうしたもんかなぁ。––––いっそ公にして楽になるってのも手だけどなぁ。」
「それは今は待ってほしいな……。やっとここまで来たのに、私、もうすこし踊っていたいんです。」
「だよなぁ。そりゃバレたら、まずいよなぁ。」
 寒くなってきた夕方のせいもあろうが、女の顔は青白かった。聖也は彼女を店の前まで送り届けて、
「どうする?」
「……いい人がいたらお願いします。」
「よしきた。任せときな。」



 人さがしというのも、聖也の仕事のひとつだった。朝から晩まで休みなしに働き口のあるこの街では、彼のような手配師を訪ねていけば食いっぱぐれることがない。そうでなくても、娘ざかりがこの街を歩いていようものなら、ほんとうの親よりも蝶よ花よと可愛がられて、時を忘れたような塒が手に入る。
 夜も更けたこの街の大通りを、一人で歩いている娘などは大方、薄弱なのか田舎者なのかのどっちかだ。つまり光の瞬きと甘い蜜の香りに誘われて迷い込んだ一寸の虫たちで、この街に巣食う男たちからしてみれば、五分の魂など微塵も思われない。いずれ眼の網にかかって、すっかり捕り尽くされてしまうだろう。
 瓦礫のように押し寄せて来る人の流れに逆らって、娘が一人で歩いている。口の開いたショルダーバッグをたすき掛けにして、くたびれたスニーカーを履いている。聖也がうしろから近づいてみると、髪は天然のウェーブがかかったくせ毛を耳の高さで結ってある。
 だが、聖也よりも先に、その娘へ声をかける男たちがいた。交差点の光のなかで、娘は男たちにからかわれて、みだらな真似を見せつけられたりしていた。娘は目をぱちくりさせて、それが何を意味しているのかわからないまま、何度も同じ真似をさせられて笑っているのだ。
 聖也はガードレールに腰掛けて、横目で見ていた。ネオンがはじけるたびに、娘のうなじの産毛が光り輝くのだ。うるんだ瞳にも輝きが映りこんで、いまにも水が溢れ出してきそうだった。
 こんな孤独もこの街では、よく見かける当たり前のものだ。



 その娘を連れて、深夜の食堂に落ち着いた。聖也は娘に腹いっぱい食べさせてやった。
「よく食うね。」
「だって、お腹空いてたんだもん。」
「そんなに食うと眠くなるぞ。」
「もうこんな時間だからね。あとは寝るだけだからいいでしょ。」
「映画観に行くんじゃなかったのかい?」
「そうだった。もう始まっちゃってるね。でも、途中から観たっていいでしょう。ねえ、連れてってくれる?」
 聖也は娘と劇場に連れ立った。二、三本のレイトショーがかかっていて、いちばん流行りのものを選んだ。思いのほか混んでいて、スクリーンを見上げる席しか空いていなかった。
「なんでこっちに出て来たの?」
「この年まで一度も実家を出たことなかったから、今しかないかなと思って。」
「勝負に出たんだな。親御さんは?」
「実家におかあさんとおにいちゃん。おとうさんは死んじゃった。」
「そう。家族とはなかよし?」
「うん、まあね。」
「実家離れてこっちに出て来てるんだったら、フラフラしてらんないよなぁ。」
「……そうだね。」
「眠い? すこし眠ったら?」
「だめ、映画始まっちゃうもん。」
 本編が始まる頃には、娘は寝息をたてていた。脳天へと降り注いで来る光と音を浴びながら、聖也もいつのまにか眠っていた。こんなにやわらかい寝心地は、ほんとうにひさしぶりだった。
 やがて娘は、ベビーシッターとして働き始めた。



 夏美の赤ん坊を抱いて、娘は束の間の母になった。けれどその頃はほんとうの母親よりも、赤ん坊と抱き合っていた。やがて哺乳瓶だけでは飽き足らなくなって、自分の乳を吸わせてみたりもした。
 聖也が酒に酔って転がり込んできても、背中をさすってやりながら、赤ん坊の話ばかりをするのだ。
「オマエはほんとに、バカだよな。」と、聖也は苦しそうに言うのだ。
「なんだかんだ言ってもね、聖ちゃんのおかげで赤ちゃんと出会えたんだから、何言われてもいいよ。」
「そういうとこだよ。テメェのガキじゃねぇのに。」
「いいの。これでもしあわせなんだから。」
 男が暴れ回って脱ぎ散らかしたものを、今度は妻の顔で後始末したりしている。
 娘は夏美の舞台を、聖也に連れられて一度だけ観に行ったことがあった。スポットライトを浴びて、美しく咲き誇る花のような姿のまぶしさに、涙が溢れ出た。そうして娘は、今まで借り物みたいに生きて来た自分の人生に気づかされて、これからは美しいもののそばで生きようと思ったのだ。
 だが––––。夏美は引退して店を退め、田舎へと引っ込んだ。赤ん坊は母親の胸へと返されて、娘にぽっかりと穴が空いたのだ。
 ふさぎこんでしまった娘を、聖也はたまの休みにドライブへ連れ出してやったりした。こんな時、ダンサーの娘たちの慰め役にもなってやったりする彼だから、行き先には困らなかった。しかし、その先々で憂さを晴らさせた後で、勘定をするのは決まって娘の財布だった。
「元気出たか?」
「うん。」
「めし、美味かった?」
「うん。美味しかった。」
「そっか。また来ような。」
「うん。また来ようね。」
「よっしゃ。じゃ帰ろう。先に済ましといてな。便所行って、車出して来るわ。」
 娘にはたかがそんなことでも思いやりだった。泣きたくなったら泣いて来いと、躰ごとがんと抱いてくれる強さが消えないのだ。聖也がどこでどんな仕事に手を染めているのかも知らなかったが、娘は貞淑な妻のような顔で、彼の帰りを待っていた。



 ––––聖也から呼び出しがあったのは、彼が七日も帰って来なかった翌日昼のことだ。娘は新しく買ったばかりのカーディガンと花柄のリボンのついたカチュームを巻いて、ゲームセンターに駆けつけた。聖也は頭に白い包帯を巻いて、格闘ゲームで遊んでいた。
「聖ちゃん、頭どうしたの?」
「うん、転んだんだ。」と、聖也は言ったきり、しきりに台を叩いていた。
 ––––ボコボコにされて、聖也は負けた。
「オマエもやれよ。」
「いいよ、私できないもん。」
「いいからやれよ。俺が教えてやっからさ。」と、聖也はコインを投げ入れた。
 娘ははじめてのゲームに夢中だった。聖也はいつもより優しくて、兄のようだった。その背後で、男たちが咳払いするのを娘は聞こえなかった。
「なあ、依子。」
「なあに、聖ちゃん。」
「ちょっと、バイトしてくんねぇかなぁ。」
「え? バイト? どんなバイト?」
 振り返って見上げると、聖也は目を閉じて、泣いているのだ。



 ネズミと呼ばれた男は、すでにこの街にはいない。その行方はようとして知れず、今では噂にものぼらなくなった。そうしてこの舞台の登場人物は、次から次へと塗り替えられてゆくのだ。
 娘は湯を沸かしながらふと、あぐらをかいて座っている聖也を頭の上に思い浮かべることもある。いつかぽんと音を鳴らして、帰って来ることがあるかもしれないと、頭をめぐらしてみたりする。一日働いて一日休むというような仕事を続けながら、それでもなお、美しいものを信じ続けているのだ。

 舞台では今夜、新人がデビューするらしい。
 晴れの日を祝うのは––––ごひいきの客だけじゃない。
 娘はやはりまぶしさにあこがれて、その光のなかで、花束を贈るのだった。
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