獅子に戯れる兎のように
「汚い部屋ですが、好きなとこに座って下さい。私は開店準備があるんで、先生あとはバカ息子にビシッと宜しくお願いしますね」

「あの……。そのことですが……。女将さん女将さん……」

 女将は私の話をスルーし慌ただしくドタドタと階段を駆け降りる。

 私は何も話せないまま、部屋の隅にポツンと取り残された。

 獅子《ライオン》の檻の中に自ら入り、食い殺されてしまうかもしれないのに、獅子《ライオン》の帰りを待つ哀れな兎になった気分。

 派遣会社の指示に従いここに来たが、現実を目の当たりにし、やはり野獣に勉強を教えるなんて無理に決まっていると再認識する。

 本人に勉強する意思がないのだから尚更だ。

 机の横に借りたビニール傘を立て掛け、仕方なく椅子に座る。ギーギーと錆びついた音がし、机で勉強してないことがありありとわかる。

 本棚にはコミックが並び、机の上にはバイクや車の雑誌が積み重ねられ、DVDや煙草の空き箱が散乱している。高校の教科書はおろか、問題集や参考書なんて一冊もない。

 本来、彼には進学する意思はないのだから、それも当然のことだ。

 椅子から立ち上がり、窓から空を眺める。立ちこめていた霧は晴れ、夕陽が空を赤く染めている。

 茜色の空……。
 雨雲は消え空は灰色から茜色へと色彩《いろ》を変える。

 まるで花びらの色彩《いろ》を変える紫陽花みたい。居酒屋の入口に置かれた紫陽花の鉢に視線を落とす。

 花びらの色を変えることが出来る紫陽花が羨ましい。

 私は雨雲と同じ色……。
 小暮と付き合っていた頃と、小暮と別れた今も、何も変わらない。

 心は闇に閉ざされ、ずっと燻ったままだ。
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