私のために、もう一杯
 夜八時で茜亭は閉店する。
 アルコールもメインとなる食事も出さない。喫茶のみの喫茶店だからそれ以上遅くまで営業していても売り上げに大きな差はない。
 入口の看板を仕舞い、明かりを消して店内へ戻る。もう洗い場は片付いているので、自分が着替えればあとは帰宅するだけだ。

 ふと、カウンター下に光るものを見つけて史郎は屈みこんだ。

 指輪だった。
 シンプルで石もついてない、内側を見ればうっすら日付らしきものが見えるから、おそらく結婚指輪だろう。
 客のものだろうか。そこまで考えて、今日この席に座った客を思い出した。

(紗良さん…?)

 なんと大事な忘れ物をしたのだ、あの人は。
 困ったが、連絡先も知らない。常連だが毎日来るわけでもないから、もし探しているとしたら大変だ。まさか喫茶店に落としてきたとは想像していないだろう。

 エプロンに挟み込んでいた布巾で丁寧に汚れを拭う。自分がまた失くすような失態を防ぐため、レジを開けて使っていないポケットに入れた。
(早く引き取りに来れるといいんだけど…)

 いつも夕方過ぎにやってきて、美味しそうに自分が薦めたコーヒーを飲み、静かに音楽に耳を傾け、小一時間ほどで帰っていく女性客。
 どこの誰とも知らない。他人の奥さんで、ここから少し離れた場所に住んでいるということくらいしか聞いていない。けれど、いつも店にいるときは幸せそうに微笑んでいるから、きっと幸せな奥様なんだろうと見当している。

 そうだ、来週はコロンビアのエメラルドマウンテンが入荷する。
 少し酸味が強いが、ブルマンも旨そうに飲んでいた彼女なら、これも喜んでくれるはずだ。
 コーヒーに合いそうなフルーツケーキも買って来よう。コーヒーにも“マリアージュ”があることを教えてあげたい。

 コーヒーもケーキも喜んでくれそうで、想像したら史郎も思わず笑顔になった。
 自分がコーヒー好きだからと言う理由だけでオープンした喫茶店が「茜亭」だ。
 同じコーヒー好きが集ってくれればいいな、程度に思っていたが、コーヒーだけでなく音楽や飾る写真の趣味まで共通した常連客が現れるとは思わなかった。

 史郎は店内の照明も消して、裏口から出て鍵をかけた。
 明日もまた、ここでコーヒーを淹れる。
 明日か、明後日か。彼女が来てくれる日には美味しいコーヒーを淹れようと、心に誓いながら。

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