溺愛音感


『わたし……ぜんぜん憶えていない……マキくんと昔会ったことも、ぜんぜん憶えていない』


記憶力が悪い自分を恨めしく思ったが、メーガンさんは呆れ顔で首を振った。


『そりゃあそうでしょうよ。離れた場所から眺めていただけなんだから』

『……え?』

『彼自身は、リクエストしていないし、チップも渡していないもの。彼の友人が、ハナちゃんのファンだったみたいね』

『マキくんの……友だち……』

『ハナちゃんと同じくヴァイオリンを弾いていたそうよ』

『えっ!?』


もしかして、という思いはメーガンさんのひと言で肯定された。


『残念ながら、プロにはなれなかったそうだけれど』


細切れの点を線にできるだけの情報はなかった。

それでも、わたしとマキくんは『彼女』で繋がっていたのだと確信した。

女性との付き合いが長続きしないマキくんの唯一の例外。
もうヴァイオリンを弾いていないと知っていながら、いつかもう一度、伴奏する機会を諦められない相手。


マキくんの耳の奥には、いまもきっと、彼女が奏でるヴァイオリンの音が流れている。
そうでなければ、あんな風に――「ふたり」では弾けない。


ザワザワしていた胸は鈍い痛みを訴え、ジリジリした熱がつま先から全身を這いあがる。

彼女の代わりに、いくらでも演奏する。
でも、わたしは「彼女」にはなれない。

唯一の例外には、なれない。
彼にとっての唯一の存在は、すでにいる。


(どうして、いまあるもので満足できないんだろう? どうして、欲張りになっちゃうんだろう? ヴァイオリンが弾けて、美味しいごはんが食べられて、雨露をしのげる屋根の下で眠れるなら、それだけで幸せなはずなのに……どうして、)


ひとり占めしたくなるんだろう?



『ところで……ハナちゃん、柾とお見合いしたんですって?』

『あ……はい……』


ぐちゃぐちゃになりかけた頭と心は、一旦クローゼットにしまう。
忙しいメーガンさんが、わたしのために時間を作ってくれているのに、物思いに耽るのは失礼だ。


『音羽から相手の名前を聞いて、紅茶を噴き出しそうになったわ』


メーガンさんは、緑茶を飲みながらくすりと笑った。


『ほんと、頭が良すぎて回りくどくなる典型ね。さっさと「君を助けたのは僕だ!」と名乗り出れば、ヒーローになれるのに』

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