溺愛音感


「あのう、ハナさん。それなら……ちょっとだけ……ちょーっとだけ、オケの練習覗いてみませんか?」

「え?」

「今日、臨時練習があるんです。三輪さんも……あの時、ぎっくり腰になったコンマスも、ぜひハナさんに会ってお礼を言いたいそうなので……」

(そ、そうだった……わたし、美湖ちゃんに何の返事もしていなかった……)


美湖ちゃんに、N市民交響楽団への入団のお誘いを受けてから今日まで。

アルバイトで顔を合わせることがなかったのですっかり放置していたが、いい加減、断るにしろ、顔を出すにしろ、何らかの返事をすべきだった。


「それに、団員たちも気になってるみたいで。オケの宣伝をするのが目的の動画なのに、団とまったく関係のない人が演奏しているのは、どうなのかって……」


(確かに……)


あの動画を見て興味を持ってくれた人も、わたしがまったくの部外者だと知ったら不審に思うかもしれない。

落ちぶれたとはいえ、元プロのヴァイオリニスト。
とっくに忘れられている存在だと思うけれど、どこからどう漏れ伝わるかわからない。
宣伝のためだけ、話題作りのためだけに協力したなんて噂にでもなったら、オケにマイナスのイメージが付いてしまう。

美湖ちゃんの力になりたくて演奏したのに、それが逆に彼女の足を引っ張るなんて本末転倒だ。

わずかでも、かかわりがあるという事実があったほうがよい気がする。


「……行くよ」

「ほ、ほんとですかっ!?」

「見学でもよければ。入団するかどうかは……ちょっと考えさせてほしいんだけど」

「もちろんですっ! あ、でも、えっと……一応、ヴァイオリン持って来てもらってもいいですか? 弾かなくてもいいですから。その……手ぶらだとただの冷やかしかって、何かとうるさい人もいるので……」


大人でも「いろんな人」がいるし、それぞれが「いろんな意見」を持っている。

曲げることも、柔らかくすることもできない。
そんな頑丈、頑固な意見を持つ人も中にはいるだろう。

イヤだと言い張る理由もないので、頷いた。


「わかった。一度、家に寄ってもいい?」

「もちろんです!」


美湖ちゃんには駅で待っててもらい、急いでマキくんのマンションへ戻り、ヴァイオリンを手に再び駅へ。

練習会場は、市のコミュニティホール。
『KOKONOE』のオフィスがある隣駅から、徒歩五分ほどの場所にある。


わたしたちが到着した時には、すでに椅子出しが終わり、あらかたの団員がそろっていて、和やかに談笑していた。


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