溺愛音感


『ハナ?』


聞き慣れた声は、いつもより二段階くらいトーンが低い。


「マキくん?」

『無事で、花梨と一緒なんだな? 彼女が言うとおり、しばらく俺の部屋には近づかないほうがいいだろう。ホテルに部屋を取るか、お祖父さまのところにでも……』

「や、音羽さんのところに行くよ。あそこなら、知らない人は近づけないし。買い物とかも、家政婦さんに頼めるし」


マキくんはしばし電話のむこうで沈黙していたが、ふっと溜息を吐いて同意した。


『……そうだな。それがいいかもしれない』


元気のない声に、事態は思ったよりも面倒なのではないかと心配になった。


「あの……マキくん。わたしのせいで、め、迷惑かけて、ごめんね?」


中傷目的の記事を作成するよう依頼した人には抗議したいところだが、そもそも「ネタ」が満載のわたしだから、起きたこと。

相手がわたしでなければ、マキくんが巻き込まれることもなかったはずだ。


『謝罪すべきなのは、俺のほうだ。コンクールの準備をしなくてはいけない大事な時なのに、すまない』

「大丈夫だよ。記事に書かれていたことは、ほぼ事実なんだし。いまのわたしに話題性があるとは思えないから、たぶん、そんなに長引かないよ」

『ほぼ事実かもしれないが、真実ではない』

「それを鵜呑みにするような人とは、付き合っていないから大丈夫」

『ハナ』

「マキくん、あれくらいでどうこうなるほど、いまのわたしは弱くないよ。これまで、もっと酷いこと言われたことだってあるし。もう一度、プロのヴァイオリニストとして活動を始めたら、批判されたり、こき下ろされたりするのは、日常茶飯事になると思うし」 

『それでも、傷つかないわけではないだろう?』

「傷ついたのは『幼な妻』って書かれたことだよ! わたし、もう大人だし!」


電話口でふっと笑った様子が聞こえ、ほっとしたのも束の間、失礼な発言をかまされた。


『そうだな。ここ数か月で、ずいぶん成長した。子犬は育つのが早いからな』

「なっ! わたし、子犬じゃないしっ!」

『ああ。もう、子犬じゃない』

(それって……わたしを対等な関係を結べる、大人の女性だと認めてくれているということ?)


確かめたいが、「ちがう」と言われるのがイヤで、結局何も言えない。


『落ち着いたら、迎えに行く』

「うん。マキくん、ひとり寝が寂しかったら、わたしのシャチ貸してあげるよ」


抱き枕派と思われるマキくんに提案したら、思いもよらぬ返しをされた。


『いらない。ハナ以外を抱きしめても、癒されない』

「…………」


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