溺愛音感

「クラシックですか?」

「僕が若かりし頃、ヨーロッパを放浪していた時に出会った路上演奏のカルテット、彼らが自費制作したCDなんだ。残念ながら、大手レーベルでは名前を見かけないから、あれからどうしているのかまったくわからないけど……。ジャズ、カントリー、アイリッシュ。なんでもありのCDで、でも……」

(へぇ……マスターって、ヨーロッパを放浪してたんだ。もしかして、お父さんにも会ったことがあったりして?)


呑気にそんなことを思っていたところへ飛び出した曲名で、心臓が止まりそうになった。


「一番のオススメは、どクラシックのバッハ。無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番 ニ短調 の『シャコンヌ』。音質は、有名なレーベルのものに比べれば劣るけれど、それを差し引いてもすばらしいんだ。ハナちゃんの演奏を聴いてたら、なんだか急に思い出してねぇ……」



(ま、さか……)



数拍の沈黙の後、狭い店内を包み込むように溢れ出したのは、きっと生まれる前から聴いていたはずの音。

いまはもう聴けなくなってしまった、父の奏でるヴァイオリンの音だった。

どこまでも透明で美しく、哀愁を帯びたその曲は、父が最も愛した曲で、唯一、父がわたしに教えてくれなかった曲でもある。



『哀しみを美しく奏でられるようになったら、挑戦してみなさい』



そう言われ、きっと大人になったら弾けると思っていた。

けれど、二十五歳になったいまでも、弾けずにいる。



怒り、憎悪、失望、未練、埋めようのない喪失感。


そして――、

胸を引き裂くような痛みと哀しみ。



グチャグチャになった心を「美しく」表現する術は、未だ見つけられずにいる。



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