ロマンスフルネス 溺愛される覚悟はありますか?
「透子に早く伝えなければ、という自覚はありました。
そうしなかったのは…結局のところ、知ればあなたが俺から離れるかもしれないと恐れていたからです。」


夏雪の瞳は凪いだままで、だからこそ彼が受け止めている現実が重たく感じられる。


「どうして」


「それは、これからする話を最後まで聞いてから、透子が決めてください。」


夏雪は私を安心させるようにそっと背中に手を回し、ベッドの中、静かな口調で話し始めた。


「時は幕末、ちょうど樫月グループの創始者である樫月久左衛門が商船を使った商売で財を成した頃のことです。

久左衛門は生活の苦しい家に生まれましたが、類い稀な才覚で瞬く間に成り上がりました。

武士などの特権階級に金を貸して社会的な立場を強めていき、幕府からの専売特権なども手に入れます。

地位も、名誉も、財力も、望むものを全て手に入れたように思えますが、彼はひとつだけ深い劣等感を抱えていました。

そのおかげ彼はいくら成功しても満たされることはなく、後にひとつの執着を生みます。」


「執着って…何?愛、とか?」


「そうですね、恋愛の問題もあったでしょう。しかし、始まりは自分の容姿への失望です。

彼にはできの悪い弟がいて、弟は久左衛門の稼ぎを使うことしか能のない男でした。

しかし、弟は頭抜けて顔立ちが整っていて、仕事もせず遊び歩いている弟にはいつも多くの女性が寄り付いていたそうです。

一方で、久左衛門は商売の才覚はありましたが、異性とはうまく接することができません。彼は仕事のできない弟のことを蔑みながらも、内心では羨ましく思っていました。

さらに、久左衛門が長年懸想していた松という女性と弟が結ばれたことで、久左衛門は非常に複雑な気持ちになったようです。」


「それは…辛いだろうね」


「個人的には久左衛門に恨みのある立場なので、同情はできませんが、」


「そうなの?すごい昔の人のなのに?」


「ふふ、そう焦らず。結論はもうすぐです。

久左衛門にも妻子がおり、次の世代の商売について万全の準備をしていました。
その一方で、自分の望む容貌を手に入れたいという執着を持ち、彼なりの方法でそれを叶えようとします。

それが、弟夫婦の子供に自分の望む名前を付けること。そして彼らの子孫についても管理下に置くこと。

久左衛門は莫大な資金で弟夫婦の生活を全て面倒見る代わりに、この条件を飲ませました。」


成功者の切ない物語から、何だか急に生々しい話になってきた。


「でも、名付け親になりたいっていうのはわかるけど…。管理下に置くってどういうこと?」


「樫月家に従属する…と言いますか、具体的には仕事や婚姻の自由を樫月家に委ねる状態です。弟夫婦は金に目がくらんで、その条件を二つ返事で飲みました。

そうして産まれたのが彼らの息子、樫月一夜(かしづき いちや)です。後に真嶋姓になります。」


「…!」


「もうおわかりですね。真嶋家の祖先は、久左衛門の弟、そして真嶋一夜から始まっています。

久左衛門は真嶋一夜を使い、自分の望む顔立ちを造る実験を始めました。」


『実験』

夏雪の口から飛び出した言葉の冷たさに言葉を失う。
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