年下ピアニストの蜜愛エチュード
 千晶が腰を下ろすと、ホールの照明が落とされた。

 入れ替わるようにステージ上が明るくなって、微笑むアンジェロにスポットライトが当たる。

 はじまりの曲はエチュードの『エオリアン・ハープ』だった。

 アンジェロはピアノの屋根に花束を置いて、時おり千晶を見つめながら鍵盤に長い指を走らせている。

 前に順が『ショパンさん』と呼びかけたからだろうか。マズルカ、ワルツ、スケルツォと次々とショパンの名曲が続いた。

 しかし四百人が入れるというホールで、その演奏を聴いているのは千晶だけだ。

 時に優しく、時に情熱的に、アンジェロが紡ぐ旋律はきらめきながら弾けて、空気に溶け込んでいくような気がした。

 ――千晶、僕の千晶。

 改めて言葉にされるまでもなく、その一音一音がひたむきな想いを訴えていた。

 ――何も考えなくていい。どうか怖がらないで、ただ僕のそばにいてほしい。

 音楽に導かれるまま身を委ねて、どれくらい時間がたっただろう。

 アンジェロは今、千晶を見つめながら、一度も耳にしたことがない曲を弾いていた。

 切なく透明な調べが、子守歌のように優しく全身を包んでいく。

 気がつけば、千晶の頬は涙で濡れていた。

「これは『ベリッシマ』……僕が作ったセレナーデで、誰よりも美しい女性という意味だ。君のことだよ、千晶」

 アンジェロはピアノの蓋を閉じると、ステージから下りて近づいてきた。

「ごめん……本当にあきらめが悪くて」

 かすかに震えながらも、その視線は千晶から離れようとしない。

「だけど愛しているんだ。ティ・アモ、千晶」

「アンジェロ」

「君がいつも笑顔でいられるよう、僕のすべてを捧げる。どうか妻になってほしい」

 千晶は椅子の手すりにすがるようにして立ち上がった。足に力が入らず、身体がふらつきそうになる。

「私は――」

「お願いだ、千晶」

 本当はよくわかっていたのだ。五つも年が上で、小さな甥を育てていて、外国や貴族はもちろん、セレブとさえ縁がない――そんな自分でもアンジェロから離れたくない、どうしても離れられないことを。

「ティ・アモ、アンジェロ!」

 千晶は何度も頷いて、アンジェロの胸に飛び込んだ。
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