桜の下に立つ人
伝えたいこと
 悠祐のいない美術室は、静かだった。
 部員たちは黙々と自分の作品に取り組んでいる。悠祐がくる前は、これが普通の日常だった。それなのに、その静けさが逆に気になって、美空の鉛筆を持つ手は先ほどから微動だにしない。

 部活が始まる直前に、黒板の前に立った竹本がこう言った。

「浅井くんは今日は来ません。しばらく休むとのことです。モデルは一時的な助っ人としてお願いしていたので、前回が最後になるかもしれません」

 えー、と残念そうな声を上げたのは女子たちだった。竹本はそんな彼女たちを

「まだ決まったわけじゃないんだから。それに、短い間でもとても助かったでしょ? 会ったらきちんとお礼を言うこと」

と大人びたもの言いで窘めた。
 美空はそんな彼女らを見つめながら、胸のところがギュッと痛むのを感じていた。自分のせいだと分かっていたからだ。

 思い出すとまた痛みがぶり返して、スケッチブックに這わせようとした鉛筆は一筋の軌跡すら残せず机の上に戻った。
 白い紙を前にしているのに、描こうという気持ちが全く湧いてこない。息をするのと同じくらい絵を描くことが当たり前だった美空にとって異常なことだった。
 頭を占めるのは、昼休憩の出来事ばかりだ。あのときなんと言ったら、悠祐に美空の気持ちを分かってもらえたのだろう。怒らせずに済んだのだろう。
 美空は決して悠祐の考え方や感じ方を否定したいわけではなかった。ただ、知ってほしかったのだ。美空の気持ちを。悠祐の野球がどれほど美空を救ったかを。そして彼が手放そうとしているものが、どれほど貴重なものなのかを……。
 美空の言葉は不器用で、オブラートに包んだ言い方ができない分、直截になる。その言葉はとても強くて、考えを押し付ける意図が美空自身にはなくても、聞く方がそう受け止めてしまうことがある。適した言い回しができずに誤解を生むことも多い。
 特に今の悠祐にとって、野球の話題はとてもデリケートな問題で、彼がどれだけ冷静に語って見せても、その胸の内に美空の真意を思いやるほどの余裕はなかっただろう。
 美空が、自分の気持ちをもっと上手に表現できたなら、あの会話にはもっと別の結末があったはずだ。美空がうまく話せないばかりに、悠祐を傷つけてしまった。それがとても苦しい。
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