桜の下に立つ人
歩み寄り
 その日以来、彼は桜の下に現れなくなった。代わりに美術部のモデル係として、毎日美術室に顔を出している。竹本がモデルとして連れてきたというのは本当だったようだ。
 明らかに体育会系の鍛えられた体格を実物でじっくりと観察できる機会というのは、文化系の美術部においてとても貴重だ。女子部員たちは飛び上がって喜んでいる(観察するのはもちろん服の上からである)。
 放課後になるたびに女子たちの視線を独り占めする彼の名は、浅井悠祐というらしい。美空の一つ上の、二年生である。予想は当たっていたというわけだ。だが、ここ数日で美空が知りえたのは、それだけだった。美空が女子たちの輪に加わらないからである。
 美空の個人行動は今回に限った話ではないので、誰もとやかく言ったりはしない。マイペースで、人よりも思考や行動のテンポが遅く、話をするのも苦手な美空は、グループに混ぜてもらうよりも一人でいるほうが楽なのだった。
 加えて、絵を破り捨てられた騒ぎもあったものだから、美空は触らぬ神に祟りなしとばかりに遠巻きにされていた。
 そういうわけで、悠祐の姿が窓の外に見えなくなっても、美空は相変わらずいつもの場所で黙々とスケッチを続けていた。寂しく取り残された桜の姿に、なにかの発見があることを期待して。
 美空が作業に没頭して時間の流れすら忘れそうになっていたとき、その肩をトントンと叩く人がいた。竹本だ。そもそも美術部で美空に声をかけるのは葉山と竹本くらいである。
 なんの用かと美空が首を傾げると、竹本は「一応聞くけど」と前置きをした。

「浅井くんにポーズのリクエストするの、結城さんの番なの。なにか頼みたいポーズ、ある?」

 公平な竹本はどうやら、美空を仲間外れにはするまいとわざわざ確認に来てくれたようだ。
 美空は無言で窓の外に視線を移した。見つめる先にあるのはもちろん桜の木だ。しかし、すぐに首を振って、下を向く。察しのいい竹本はそれでも美空の考えを正しく読み取って、苦笑した。

「うん、そうね。あそこに立ってもらうのは多分、駄目」

 そしてそっと美空の耳元に顔を寄せて囁く。

「皆には話してないけど、浅井くん、肩の故障で野球部を辞めたの。あそこに立っていたのは、未練、じゃないかな」
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