命令~ソレハアイカ否カ~
第一章 北原田光という男
 摂関政治。平安時代に藤原氏は権力を得るために自分の娘を天皇に嫁がせたという。そんなあくどい手を思いつくなんて、藤原道長はどのような人間だったのだろう。案外、自分の父親のように口数の少ない人間だったのではないだろうか。宮原寺瑠菜の頭の中では、つい最近大学のレポートのために読んだ平安時代についての歴史書が紐解かれていた。
 「北原田光と恋に落ち、結婚しろ」
 それが父親から瑠菜にくだされた命令であった。北原田光とは、父が所有するベリーヒルズビレッジ内にある総合病院の経営者の一人息子であった。その総合病院は収益が多く、父宮原寺泰一は経営権を入手する方法として、自身の養女瑠菜との婚姻関係を思いついたのだ。光と瑠菜との間に子供出来れば、その祖父として実質的な経営権を握るーそれが父の算段だった。
 それは、体のいい厄介払いでもあった。瑠菜は、宮原寺泰一と所謂「お手伝いさん」との間にできた不義の子であったのだ。
 ***
「お父様、お見合いではいけませんの?」
家に味方のいない瑠菜は父親には逆らえない。ここに嫁げと命令されたらそうなるのだろうという投げやりな気持を昔からもちつづけていた瑠菜は、父親から「恋」などと甘ったるい言葉が出てきたのに驚きを隠せなかった。
「自然に恋に落ちなければならん。相手の事を愛しいと思わなければ、その子供に経営権を引き継がせることが確実にならないからな。他に優秀な人材がいて、経営権の世襲をやめるなどといわれたらかなわない。これは命令だ」
なら、私が心の中で誰を好きでいるのかは自由よね、と瑠菜は心の中でつぶやいた。
 ***
父はやり取りの最後に、光は彼の休日である水曜日にベリーヒルズビレッジ内のテナントの屋上にある日本庭園に頻繁に出没するらしいから足しげく通え、と告げた。
 父親の命令通りに、日本庭園に向かうため、ショッピングモール内のエレベーターに乗り込む
。「R」ボタンを押ししばらく待つと、エレベーターが開いた。ガラス張りの天井からは陽光が降り注ぎ、枯山水の石が生きているように光を浴びている。静かな空間。人間が確かにいるのに、自然に吸い込まれてしまったようにしんとした空気が張り詰めている。その庭園を表現するには悠久、わびさび、格式、どんな言葉も安っぽく聞こえる。庭園を四角く囲むような配置で、艶やかな革張りの二人掛けのソファが点在していた。エレベーターと反対側のソファに、若い男性が読書をしながら座っているのを見つけた。
 彼だ。瑠菜は直感的にそう思った。かつかつと自分の歩く音が庭園内に響くのが、いやに耳につく。あ、私緊張してるんだ。ぼんやりと感じた。手に汗をかいている。彼が座るソファまであと少し。
 彼がこちらを見た。心臓がドクっと跳ね上がり、歩みが止まる。
 失敗は許されない。命令を果たせなかったら家に居場所はなくなる。ぐるぐる不安や恐怖が駆け巡る。自分の恋はかなわない。自分は自由に生きれない。どうしてどうして。自由に行きたい。本家の血筋の雪が羨ましい。彼女は自由。征雪という優しい婚約者がいる。私も征雪さんが好きなのに。私はこれからこの男の人と恋に落ちなければならない。父親の命令は絶対だ。心臓がぐるぐるする。
「あの、顔色悪いけど大丈夫ですか?」
彼は瑠菜の眼の前に立っていた。
「あ……」
彼を見た瞬間に体の中を駆け巡った感情に縛られて、瑠菜は自分が動けなくなっていたことに気づいた。
 しくじった。頭をガーンとなぐられたようだった。ちゃんと笑顔で「はじめまして」と優雅に挨拶する予定だったのに…。そう思ったときにはもう遅かった。
「とりあえず、座ってください」
彼は座っていたソファに瑠菜を座らせ、ちょっと待てってくださいねと声をかけて姿を消した。
北原田光は美しい男だった。さらさらとした黒髪、白い肌。女性としても十分にやっていけそうなアンニュイな雰囲気を象徴する目じりのほくろ。底知れない妖艶な雰囲気を放つ物腰。瑠菜の思い人である藤川院征雪とはちょうど正反対のような人物だった。
「これ、とりあえず飲んで」
すぐに戻ってきた光は、スポーツドリンクのペットボトルを差し出し、瑠菜の隣に座った。
「あ、ありがとうございます」
いいえ、と光は微笑んだ。どこかシニカルな笑みに瑠菜は背筋に冷たい水を浴びたような感覚を覚えた。
「お名前は?」
先に口を開いたのは光だった。
「宮原寺瑠菜といいます。大学三年生です」
「宮原寺…?」
光は少し考えこむ様子を見せると、謎が解けたようにうなずいた。
「ああ、宮原寺のお嬢さんなんだね。僕は北原田光。26歳。あなたのお父さんの敷地内の病院で医者をやっている者です」
それは、よく知っています、と瑠菜は心の中でつぶやいた。
瑠菜は話題を探し、先ほどまで本を読んでいたことを思い出した。
「読書の邪魔をして申し訳ありません」
「いや、気にしないでください」
「何の本を読んでいたんですか」
「ちょっと、経営についての本をね…。じきに僕が病院を継ぐことになっているから学ばないといけないことが多くてね」
光は、知らないことが多くてなかなかページが進まないけど、と肩をすくめた。
一見したときに感じる冷たさとは裏腹に、光のしぐさはチャーミングなものだった。妖艶な表情とのアンバランスさが奇妙な、けれど目の離せない魅力をはなつ。
「君も本は読むの?」
「はい。日本史学科で、平安時代を専攻しているので読むのは古文ばかりなんですけどね」
瑠菜は正直に答えた。
「へえ。大学はどこなんだい?」
「**大学です」
「頭もいいんだね」
瑠菜の通う大学は一般的に高学歴と言われる大学だったが、医者にそう言われると委縮してしまう。
光はにやりとした。瑠菜はまたぞっとした。こんなに物腰が柔らかなのに、なぜか光のことを怖いと感じる。
もう立ち上がりたい。立ってここから逃げ出したい。彼から逃げたい。瑠菜の心はそればかりだった。
「あのさ、君にお願いがあるんだけど」
光は瑠菜の眼を覗き込んだ。黒々とした瞳は深淵を思わせる。吸い込まれる。堕ちていく。
「僕と結婚して、僕の子どもを産んでくれないかな」
「…?」
瑠菜は光がなんといったかわからずただ首を傾げた。結婚?子ども?いったい何を言っているの?
「僕と結婚して、子供を産んでほしいんだけど」
光は繰り返した。
「は、はい?」
あまりにも素っ頓狂な声で、自分の声かと疑うほどだった。
「だめかな?」
柔らかな声が耳をくすぐる。
「と、突然そんなことを言われても!」
目的なんぞすっかり忘れて、瑠菜は逃げなければならないと言わんばかりに立ち上がった。
「ああ、帰るのかい?」
鷹揚に尋ねた光は、携帯番号だけ教えてくれ、といった。
電話番号でもなんでもいいから、こんなよくわからない男から早く逃れなければならないと感じた瑠菜は、意識半分に番号を教え、まさにしっぽをまいてー後から自分がいかに滑稽なさまであったか思い出して赤面することになるのだがー逃げかえることになったのだった。



その晩、といっても深夜2時に瑠菜の携帯は鳴り響いた。すでに眠りについていた瑠菜は、画面を確認することなく応答ボタンを押した。
「北原田光です。おはよう、瑠菜ちゃん」
きたはらだひかる…。きたはらだ…光!?驚きのあまり、瑠菜は布団からがばっと体を起こした。
「こんな夜中に、なんのようですか」
今日会ったばかりなのに、こんな深夜に電話をかけて来るのはあまりにも無作法だろうという嫌味をこめた。
「こんな夜中だから、意味があるんだよ」
高過ぎず、低すぎない光の声は耳ざわりがよく、脳まで響く。
「君が逃げ帰ってしまったから、今日のお願いの話をしようと思って」
「今日のお願いって…」
「結婚して、子供を産んでほしい、っていうこと。僕は、君の遺伝子が欲しいんだ」
遺伝子?寝ぼけた頭は彼の言葉をなかなか理解しようとしない。
「君はとってもきれいだし、頭もいいし、僕の専門外の教養がある。自分の子どもの母親として、すばらしいと思うんだ。君みたいな素晴らしい人を他に取られてしまっては困るからね。手段や形式を問わずに手に入れたいんだ」
ぐさり、瑠菜の胸に何かつきっさった。誰かにここまで求められたことはなかった。必要とされたことはなかった。光は自分を初めてはっきり必要としてくれた。けれど、小さくて冷たいナイフのような言葉だった。光が、必要なのは、自分の子どもの「母親」に最適な女であり、私自身ではない。出会ってその日に私自身を求めてなんていうのも無理な話だが。
「君のことを少し調べさせてもらったよ。君はお父さんとしか血がつながっていない養女なんだってね。きっと今までさみしい思いをしてきたんだろう。僕の子どもを産んでくれるっていう契約を結んでくれたら、その孤独から救ってあげられるよ。ただ、子供を産むってことは命令でもあるけど」
孤独から救われる。なんて甘美な響きなのであろうか。これは夢のつづきなんじゃないか。
 宮原寺瑠菜は幼少から孤独を抱えていた。自分を産んだ実の母親は、家から追い出され、会ったことはなく、生きているかどうかもわからない。継母は口数が多くなく、何を考えているのかわからない。父親は、「育ててやっている」という尊大な態度だった。継母と父親との間に一つ年下の雪という娘がいるが、雪も母親譲りの性格で、あまり会話することはなかった。瑠菜が本音を溢せるのは同い年で幼馴染の藤川院征雪だけだったが、彼もまた宮原寺家と並ぶ旧財閥の御曹司であり、雪の婚約者でもあった。雪と征雪。二人は、生まれる前から結婚が約束され、結びついた名前が決められていた。だから、瑠菜は征雪という名を思いうかべるたびに、決して結ばれることはないのだと痛感し、こころがじくじく痛むのを感じた。征雪のことを「まーくん」と呼ぶのは、瑠菜なりの、ささやかな抵抗なのである。
「ふふ、泣いてるの。かわいいね。よっぽど今までさみしかったんだね」
瑠菜は光に言われて、自分が泣いていることに気が付いた。
「僕の子供を産んでくれると約束してくれたら、もうさみしくないよ」
光が何度もそう囁いているうちに、瑠菜は眠りに堕ちていた。



それから約1か月のあいだ、光は多忙なスケジュールの合間を縫って深夜に電話をかけてきては「子供を産むのは命令だ。でもその命令を聞いてくれたら君を孤独から救ってあげる」と瑠菜が眠りにつくまで囁いた。毎週水曜日に日本庭園でぼんやり本を読むのがルーティンとなった。電話が当たり前になった。寝不足は確実に判断力を鈍らせていった。
 初めは冷たいと思った「命令」も愛ゆえだという光の言葉を信じるようになっていった。光という存在が瑠菜を蝕んでいった。
 必要とされているという誘惑に瑠菜はすっかり抵抗することをやめたのだった。
「明日、大学休める?」
いつものようにショッピングモールの日本庭園に行くと、光は唐突に尋ねた。
水曜日は全休だが、木曜日は二コマ講義が入っている。まあ、一度くらい休んでも大丈夫か、という軽い気持ちで瑠菜はうなずいた。
「よかった、じゃあ行こう」
最初はぞっとした光のシニカルな笑みも、どこか瑠菜を安心させるものに変わっていった。それは、光が変わったのではなく瑠菜の受け取り方、光の見方が変わったからというのにうすうす気づいていたが、それに気づかないふりをして、差し出された手を握った。
 連れて行かれた先は駐車場で、車に乗せられると、光は楽しそうに瑠菜に向って言った。
「実は、今日と明日、珍しく二日連続で休みがとれたんだ。だから、サプライズで瑠菜をお姫様にしてあげる」
「お姫様…?」
きっと喜んでもらえると思う、と光は笑った。

 ぼんやりと車に揺られること一時間弱、連れてこられた先は豪華客船だった。あれよあれよという間にドレスワンピースに着替えさせられ、髪を華やかにセットされ、メイクを施された。淡い藤色が好き、と話したのを覚えていたらしく、淡い藤色に上品なパールが施されたドレスワンピースがすでに用意してあったのだ。優雅に揺れるピアスも、アメジストがあしらわれている。
「とってもきれいだ」
自分がプロデュースした着せ替え人形のできのよさに光は満足げにほほ笑んだ。ディナーを終えて、夜風にあたろう、とデッキに出ると心地の良い潮風に包まれる。
「お姫様、今日は満足していただけたかな」
ふわふわとした浮遊感を味わいながら、瑠菜はうなずいた。今日みたいに、孤独を感じずにいる日が続くなら、光の「命令」とやらも聞いていいんじゃないかと思った。自分が子供を産む、そんなことは考えたことがなかった。自分は母親と会ったことがない。そんな歪な自分が母親になれるのか、その問いは瑠菜にとってあまりにも恐ろしいものであって、光に言われてやっと無意識のうちに「子供」という概念を自分から遠ざけていたのだということに気が付いたくらいだった。子供をつくる、母親になる、それを考えるだけで瑠菜の足はすくみ、深い沼にずぶずぶと沈んでいくような感覚に陥った。
 一度はまってしまったその沼は、一人で抜け出すことが不可能であった。「もう孤独にならないよ」そういう光の言葉だけが救いにであり、光のたったひとつの「命令」をかなえることだけが自分に与えられる救済であると信じ込んでいた。|
 《ルビ》客船のデッキから見渡せる黒々とした海は、瑠菜を吸い込み漂わせる光に似ている。華やかなシャンパンで、わたがしのようにゆっくり瑠菜の心はとけていく。
「光さんは、なんで子供がそんなに欲しいの」
何を当たり前のことを、とでも言いたげに光は驚いた顔をした、。
「自分の遺伝子を残したいという欲求も、それをなるべく自分の持っていないものを補う形でより優秀なものにしたいという欲求も、生物として当たり前のものだと思うけれど、瑠菜ちゃんは違うの?」
〈補う形〉…。ふわふわとした瑠菜の心は一気に冷や水を浴びせられ、しぼんでいった。
「つまり、私は、光さんの遺伝子の補助でしかないの?」
答えを聞くのが怖い。北原田光という男は、子どもは自分の遺伝子をより優秀な形で残す手段であるという思想を信じて疑わない人物であることが、瑠菜にも理解できてきたのだ。ただ、それを感情的に受け入れるには瑠菜は若すぎるうえ、孤独を抱え過ぎていた。
「別に瑠菜ちゃんの遺伝子を補助と思っているわけじゃないよ。僕の子どもの母親になってほしいんだ」
「母親…?」
「瑠菜ちゃんは文学が好きだよね。子供にとってそれは情緒や想像力を養ううえで素晴らしいと思うんだよ」
瑠菜は返す言葉が見つからなかった。相手の遺伝子を求め、その結晶である子供の母親になることを相手に課すことは光にとっては相手そのものを求める事になんら相違はなかった。
瑠菜は違う。相手そのものを求め、その一過程の大きな出来事の一つとして子供という存在があるのだった。
光にとって子供は理由であり、瑠菜にとっては答えだった。
この溝はあまりにも大きく、埋める手段として、光は一種の洗脳を用いたのだった。
瑠菜の中にある孤独を救済するという大義名分で瑠菜を酔わせ、寝不足やサプライズで冷静な思考や判断力を奪い、自分の子供を産むことにこそ存在意義があるように言葉巧みに思わせていった。
また、光は、瑠菜が本当は誰かに寄りかかりたい性質を持つ女だということを見抜いていた。「命令」という一見誰もが嫌がりそうな形式は、優しく伝えることで甘美な響きを持つものということも知っていた。
光は、瑠菜よりも何枚も上手だったのである。
瑠菜が「命令」を聞いてもいいかもしれない、と思っていることも気づいていた。
「ね、だから瑠菜ちゃん、僕の子供を産んで」
瑠菜は黙りこんだ。洗脳がまだ足りてなかったな、と思った光は話題を変えた。
「瑠菜ちゃんは一番、何の古文が好きなの?」
「『落窪物語』、ですかね」
光は微笑んで話の続きを促した。
「日本版シンデレラっていえばわかりやすいんですけど、一番の違いは王子様にあたる人物が継母に仕返しをするんです。それも結構手ひどい」
「それは君も心のどこかで、自分の継母にそうしてほしいって思っているってことかな」
まさか、と瑠菜はぶんぶん頭を振った。
やはり、自分の子どもの母親にするならこの女しかいない、と光は思った。高い鼻、栗色の髪、ぱっちりとした二重。この女との子どもだったら、どれほど見目の良い子供が生まれるだろうか、初めて見た時に強く思った。そして、自分の全く専門外であり子供の教育に役立つ知識。何より、抱えた孤独の大きさ。
孤独を「利用」すれば、必ず宮原寺瑠菜という女は自分の望み通りの「人材」になる。その確信が強くなり、光は笑みをこらえることができなかった。
「そろそろ、冷えてきたね」
光は瑠菜の手を引き、予約していたスイートルームに案内した。
「わあ…」
部屋に入ると、瑠菜は思わず感嘆の声を上げた。繊細な細工が施されたガラスのテーブルのうえにある花瓶には胡蝶蘭が生けられている。
これだけ広々とした客室が備え付けられてるなんて、今自分が乗っている船はどれだけ大きいんだろう、とぼんやり瑠菜は考えた。
花瓶の隣に、リボンのついた小さな箱がある。瑠菜がそれを見たことに気づくと、光は「ささやかだけど、プレゼント」と箱を手にした。
「開けてみて」
言われるが儘リボンをほどき、箱を開けると、大ぶりのダイヤモンドがきらめくネックレスが輝いていた。
「服もピアスもいただいてるのに、こんなにたくさんいただけません」
驚き、光の胸に箱を押しつけると、
「今日はお姫様になってもらうって言ったでしょ」
と優しく押し返されてしまった。
なにもお返しできるものがない、と悩んでいると、ある一つの疑問が瑠菜の脳裏をかすめた。
あれ…?私たちもしかして、同じ部屋に泊まるの…?
そんなまさか、と箱をいったんテーブルに置き、奥のドアを開けると、瑠菜は愕然とした。
部屋の中央には、キングサイズのベットがひとつおいてあるだけ。
ベットを呆然と見つめ、目をぱちくりさせていると光が笑いながら近づいて来た。
「あはは…。お姫様気づいちゃったか」
「ちょっと、困ります、こんなの…」
何も答えず、光は後ろから瑠菜を抱きしめる。
「ほんとうに嫌なら、俺は向こうの部屋のソファで寝るから…」
ドクン、と胸が高まる。いつも「僕」のくせにこんな時だけ「俺」になるなんてなんてずるい人なんだろう。
光の柔らかい髪が瑠菜の耳をくすぐる。
瑠菜の網膜には、征雪の笑顔が映し出される。どんなときでもからっとした笑みを浮かべている征雪。けれど、彼の名前は「雪」を「征服」するという意味。この恋は決してかなうことがないことを瑠菜は知っていた。同じ大学にいくため、勉強も頑張ったが、幼いころからの友達、という平行線が角度をつけることはなかった。
このまま、光に委ねてしまえば、楽になれるのだろうか。
「私、好きな人がいるんです」
拒絶する意思も受け入れる意思も固まらず、そう口にしていた。
「諦めてもらうよ。俺のためにね」
光の腕の力が強まり、耳朶と光の唇が軽く触れる。
脳を溶かすような囁き。叶わない恋が生む胸の痛みがそれを加速させる。
「俺は、瑠菜ちゃんの遺伝子を愛してる」
愛してる、今まで一度も聞いたことのない言葉。
もうだめだ、もう抗えない。
瑠菜の体の力は抜け、光にすべてを委ねた。

海が反射した朝日で瑠菜は目を覚ました。薄暗い部屋の中で、光の白い肌がぼんやりと浮いているように見える。顔にかかる髪を撫でてみると、とても柔らかい。
この女性のような優しい美しさをもつ男が、飢えた獣のように荒々しい姿になっていたのが頭にこびりついている。牙は体に食い込み、見えないけれど、確かに瑠菜の体に深い傷跡を残した。
この男と熱を交わしていくことで、征雪への思いは溶けていつかなくなっていくのだろうか。
いつか、自分は母親になるのだろうか。
瑠菜は、なにか自分が変わったような気がして、落ち着かなかった。

クルーズは終わり、船を降りると日常が戻ってきた。光は、家まで送る、と申し出た。
瑠菜はそれに有難くあまえることにした。
胸元のダイヤが日光を反射し輝いていた。
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