今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 大きな拍手が響き渡り、興奮した観客の熱気が会場内を満たした。

 三人は暗闇の中を帰途についた。泣きはらした真っ赤な目のマユは、ブルーノと手をつないで無言で航志朗の前を歩いている。航志朗はマユとブルーノを後ろから護衛するかのようにふたりについて行った。

 ブルーノのアパートメントに着くと、マユは先にバスルームに行った。リビングルームのソファに座ってボウタイをほどいた航志朗にブルーノはグラッパを勧めたが、もちろん航志朗は断って炭酸水を飲んだ。ブルーノはグラスに半分注いだグラッパを一気にあおった。

 「コーシ、すまなかったな」と言って、ブルーノは航志朗の肩を叩いた。

 「いや、気にするな」

 航志朗は何も尋ねなかった。

 ブルーノはしばらく沈黙してから航志朗に言った。

 「二か月前、俺たちがトーキョーに行ったのは、マユのマンマの葬式に出席するためだったんだ」

 航志朗は顔を上げてブルーノを見た。ブルーノは顔を青ざめてうつむいていた。

 ブルーノは話を続けた。

 「八年前、マユはマンマと大喧嘩してイタリアにやって来たんだ。彼女、子どもの頃からマンマといろいろ確執があってさ。マンマに無断で俺と結婚したし、マンマが体調を崩したって彼女の親戚から連絡があっても、結局、マユは帰国しなかった。そして、仲たがいしたまま、マユのマンマは逝ってしまった。最後に会った時にマンマに言われたんだってさ。『おまえは、私の娘なんかじゃない!』って」

 『魔笛』の第十四曲のアリアと同じ言葉だと思い当たった航志朗は思わず下を向いた。

 目に涙を浮かべたブルーノが怒鳴るように言った。

 「俺は大バカだ。よりによって『魔笛』に弱りきった彼女を連れて行ってしまったなんて。トーキョーから帰って来てから、ずっとマユは自分自身を責めていて、ずいぶんと痩せてしまったんだ。いったい俺はどうしたらいいんだ!」

 深々とブルーノはうなだれて頭を抱えた。

 航志朗はブルーノに何も言うことができなかった。バスルームからマユが出て来た気配にブルーノは立ち上がり、リビングルームを出て行った。一人になった航志朗は十五歳の頃の自分を思い出してため息をついた。

 (俺は、マユさんの気持ち、少しはわかるのかもしれないな)

 午前二時を過ぎても眠りにつけないマユは、ブルーノを起こさないように自分の腰に回された彼の腕をそっとどけてベッドから起き出した。マユはガウンを羽織り、水を飲もうとキッチンに向かった。

 リビングルームのチェストの上には、明日のアートフェアに出展する作品の一部が並べられていた。

 マユはそれを見て顔をしかめた。アートディーラーの妻だというのに、マユは絵画を好まない。むしろ、絵画に嫌悪感を抱いている。その理由はマユ自身、じゅうぶんすぎるほどわかっている。マユの母の趣味が絵画鑑賞だったからだ。

 マユが子どもの頃、よく母に連れられて二人で美術館に行った。というよりも、母に強制的に連れて行かれた。母は子どものマユに絵画の感想を執拗に尋ねた。母の気に入らない感想をマユが述べると、母はものすごく不機嫌になった。

 マユが物心ついた年頃には、すでに母と二人暮らしをしていた。母の実家が裕福だったので経済的には何の不自由もなく育ったが、常にマユは底のない孤独を感じていた。母は精神的に不安定で、一人娘のマユを理不尽に支配してきた。大人になって、ついにマユのなかにいる本当の自分が悲鳴をあげた時、今までの何もかもを捨てて、マユは母から逃げるようにイタリアに旅立った。

 ふとマユは一番端に置いてあった包みが目に入った。なぜかその一枚だけ、ごく普通のシーツに厚く包まれている。思わずマユはエジプトのミイラを連想した。

 その時、ローマングラスのように想像の及ばない時を経て掘り起こされても、なお今だに生なましい何かの気配をマユはそこに感じた。

 (……いったい、何がこのなかにあるの?)

 マユはその包みを手に持った。
 


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