今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 浴室の少し開いた窓から晴れたペールブルーの空を見上げた航志朗は、ふと思いついて安寿に言った。

 「安寿、これから一緒にどこかに遊びに行こうか? 夏休みにどこにも行っていないんだろ」

 一瞬、戸惑った表情を浮かべた安寿だったが「はい」と嬉しそうにうなずいた。

 安寿は胸の内で思った。

 (もちろん、日帰りだよね……)

 安寿と航志朗はそのまま台所に移動して、パジャマのままで安寿は朝食を手早くつくった。安寿の朝の定番のフレンチトーストだ。航志朗はメイプルシロップをたっぷりかけて、おいしそうにほおばった。

 「安寿、おいしいよ」

 「ありがとうございます。岸先生もおいしいって、ほめてくださったんですよ」と心から嬉しそうな笑顔で言った安寿のひとことに航志朗は一瞬凍りついた。

 (毎朝、父と一緒に朝食を食べているってことか? ……安寿がつくって)

 急に激しい怒りを覚えた航志朗は固く決心した。

 (帰国している間は、絶対に安寿と二人きりで過ごす。誰にも邪魔されないところで)

 台所のシンクの前で朝食の後片づけをしている安寿を航志朗はいきなり後ろからきつく抱きしめた。航志朗はうつむいて身を縮めた安寿に一方的に言った。

 「安寿、俺はあさっての夕方にはシンガポールに戻る。それまで二人だけで過ごそう。だから、片づけが終わったら外泊する準備をしろよ、いいな?」

 泡のついたスポンジを持った安寿は手が滑って、洗っていたプレートをシンクに落とした。鈍い音がしたが幸いプレートは無事だった。安寿は両肩を上げて深く息を吐いてからなんとか後片づけを続けた。

 (いきなり外泊って、……どうしよう)

 結局、断ることができずに自室でマウンテンリュックサックに二日分の着替えとお泊まりセットを詰めてから、いつもの黒革のショルダーバッグを肩にかけて安寿は一階に下りて来た。

 階段を下りる途中で安寿は結婚指輪のことを思い出して引き返し、デスクの引き出しに大切にしまってある結婚指輪を取り出して左手の薬指につけた。玄関でスマートフォンを操作しながら待ち構えていた航志朗は安寿のリュックサックを受け取って持ち、安寿を車の助手席に乗せた。そして、車を出そうとエンジンをかけると、そこへ咲が大きな包みを持ってやって来た。驚いた安寿は困惑した表情で航志朗の顔を見た。

 航志朗は車の窓を開けて、平然とした顔で咲に言った。

 「咲さん、これから安寿と旅行に行って来ます。あさってには戻ります。伊藤さんによろしくお伝えください」

 安寿は、航志朗の「旅行」という言葉に胸がどきっとした。

 (そんなこと聞いてない!)

 まったく驚かずに咲はにこやかに言った。

 「かしこまりました。航志朗坊っちゃんも安寿さまも、ごゆっくりとご旅行を楽しんできてくださいませ。ちょうどサンドイッチをご用意してありますので、どうぞこちらをお持ちください」

 咲は助手席に回って大きな包みを安寿に手渡した。咲は頬を赤らめた安寿に嬉しそうに笑いかけた。安寿は戸惑いながらも咲に礼を言った。

 その時、安寿が左手の薬指に真新しい指輪をしていることに咲は気づいた。前回の帰国の時から航志朗の左手の薬指に指輪がつけられていることにも、もちろん咲は気がついていた。間違いなく二つの指輪は同じデザインだ。

 (きっと、おふたりは内緒でご結婚のお約束をしたんだわ……)

 ふたりを見送ってからあまりの嬉しさに咲は涙ぐんだ。

 安寿と航志朗を乗せた車は八王子インターチェンジから中央自動車道に入った。安寿はご機嫌な様子の航志朗におずおずと尋ねた。

 「航志朗さん、これからどこに行くんですか?」

 航志朗はいたずらっぽく笑って答えた。

 「もちろん、君と二人っきりで過ごせるところに決まっているだろ」

 安寿は目の前に星が散ったようになるくらい緊張し始めた。

 (そ、それって……)

 あきらかに動揺している安寿を、航志朗は横目で見て愉快な気持ちになった。

 (そんなに緊張しなくてもいいのに。ん? もしかして俺に何か期待しているのか。何かって……)

 不意に航志朗は妄想めいたことをリアルに思い浮かべた。今度は航志朗のほうが落ち着きを失った。航志朗は思わず安寿の胸元を横目で見てしまった。今朝、思いがけず見た安寿のはだけた胸を急に思い出して、航志朗は胸が高鳴って顔を赤らめた。それから、昨日の夜、池のほとりで安寿がキスしてきた感触も航志朗は鮮明に思い出した。航志朗は右手で髪をかきむしりながら思った。

 (今、ここに安寿がいる。俺は、安寿をどうするんだ!)

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