今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第3節

 ホテルの館内は、安寿の予想以上に多くの老若男女の宿泊客たちが行きかっていた。そのほとんどがトレッキングウェアを着ていて、登山目的で来ているようだ。

 二階のかたすみに図書コーナーがあった。本棚には国内外の写真集や絵本がたくさん並んでいる。その横には古いアップライトピアノが置いてあった。細かいアラベスク模様が織り込まれた赤いラグが敷かれたスペースには、十数人の子どもたちとその親たちが集まっていた。子どもたちはラグの上に座っていて、親たちはその後ろに立っていた。これから何かのイベントが始まるようだった。安寿も子どもたちの後ろに立った。やがて、白髪まじりの中年の男と若い女性スタッフがやって来て、男は子どもたちの前に置かれている小椅子に座り、女性スタッフはピアノの前に座った。男は柔和な笑顔を浮かべて、集まった子どもたちに言った。

 「やあ、皆さん。雲の上のホテルに、ようこそいらっしゃいました。今日は、なんのお話をしようかな。そうだ、今日は霧がかかっているから、『霧のなかのお姫さま』にしようか」

 女性スタッフが絶妙なタイミングでピアノを奏でた。男はゆっくりと語り始めた。子どもたちはあっというまに男の話に引き込まれて、真剣なまなざしで耳を傾けている。安寿も楽しい気分になってきて、子どもたちと一緒に話を聞いた。

 その頃、航志朗はベッドの上で短い昼寝から目覚めて、隣に安寿がいないことに気がついた。あわてて航志朗は起き上がって部屋中を探したが、安寿はいなかった。

 (またどこに行ったんだ? 本当に安寿はマイペースだよな)

 航志朗はジャケットを羽織って、安寿を探しに部屋の外へ出て行った。

 男の話が終わると、集まった人びとが大きな拍手をした。安寿も微笑みながら拍手をした。

 ピアノを弾き終えた女性スタッフが、スケッチブックと黒い箱を男に手渡した。男は目の前の子どもたちに尋ねた。

 「ここに、スケッチブックと色鉛筆とクレヨンがあるんだ。だれか『霧のなかのお姫さま』を描いてくれるお友だちはいないかな?」

 男は子どもたちの顔を一人ひとりうかがった。子どもたちは落ち着かない様子で下を向いたり、椅子から立ち上がって親のもとに逃げるように行ってしまったりした。

 すると、突然、男が言い出した。

 「じゃあ、あの可愛いお姉さんに描いてもらおうかな」

 男は目を細めて安寿を見た。

 (えっ、私のこと?)

 安寿が目を見開いて驚くと、目尻にしわを寄せた男は安寿に向かってうなずいた。すぐに親たちから大きな拍手が起こって、仕方なく安寿は子どもたちの前に出た。

 二階に行った航志朗は遠目に安寿の姿を見つけた。すぐに航志朗は安寿に近寄って声をかけようとしたが、その場に集まった人びとがいっせいに安寿に注目していることに気がついて、怪訝に思いながらもその一番後ろに立った。

 男はスケッチブックを赤いラグの上に開いて置いた。安寿はかがんでダークグレーの色鉛筆を握ると、『霧のなかのお姫さま』の姿を勢いよく描き出した。黒い箱の中には使い込まれて短くなった色鉛筆とクレヨンがたくさん入っていた。それを見て安寿はがぜん愉しくなってきた。安寿はひたむきに描いていく。色鉛筆だけでは足りずにクレヨンにも手を伸ばして、夢中になって色を塗っていく。その姿を子どもたちは一様に口をぽかんと開けながら見つめた。親たちも安寿のただならない様子に息を詰めて見入った。

 やがて、不思議な可愛らしさをたたえたお姫さまの姿がスケッチブックの上に現れた。一同は歓声をあげて大きく手をたたいた。その盛大な拍手を耳にして、急に我に返った安寿は顔を真っ赤にしながら頭を下げた。

 腕を組んだ航志朗は笑みを浮かべて、集まった人びとの後ろからその様子を見守った。

 一番前で安寿をまじまじと見つめていた幼い女の子が男に言った。

 「わたし、このえがほしい」

 「いいよ。ちょっと待っててね」と男は言って、スケッチブックから安寿が描いた絵のページを切り離して、その女の子に「どうぞ」と手渡した。絵を手に入れた女の子は満足そうににんまり笑った。

 「……私もほしい」

 その隣にいた小学生らしき女の子が消え入りそうな声で言った。男は安寿の顔を見た。安寿は男に向かってうなずいてから、その女の子に微笑みかけた。そして、安寿は二枚目の『霧のなかのお姫さま』を描き始めた。

 その女の子には見覚えがあった。先程行った美術館に家族で来ていた女の子だ。安寿は女の子にそっと柔らかく話しかけた。

 「お姫さまのドレスの色は何色がいいかな。よかったら、一緒に塗ってみない?」

 何も答えずに女の子はおずおずと箱の中から淡い紫色の色鉛筆を取り出して色を塗り始めた。安寿は温かいまなざしで女の子をしばらく見守ってからゆっくりと尋ねた。

 「私は、安寿。あなたのお名前は、なんていうの?」

 女の子は小さな声で答えた。

 「……ゆめ」

 「ゆめちゃん。このドレス、素敵な色だね。私もこの色、好き」

 ゆめは顔を赤らめながらも安寿の目をしっかりと見て、にっこりと微笑んだ。

 ゆめの両親と兄が安寿に近づいて来た。笑顔を浮かべた兄は、ゆめの頭にぽんぽんと軽く手を置いた。くすぐったそうにゆめは兄を見上げた。両親は深々と安寿に向かって頭を下げて、丁重に礼を述べた。安寿はあわててゆめの家族にお辞儀を返した。

 ゆめの母親が目に涙を浮かべて言った。

 「とても驚きました。あんなことを自分から言い出すなんて。娘は場面緘黙があって、とても引っ込み思案で人見知りなんです。あの、本当にありがとうございました」

 ピンク色の花柄のハンカチで目を押さえたゆめの母親は、また丁寧に頭を下げた。

 思いがけない出来事が起こって言葉に詰まってしまった安寿は、大きく両手を振ってただ恐縮することしかできなかった。別れ際に母親と手をつないだゆめは振り返って、笑顔で安寿に手を振った。赤みを帯びた微笑みを浮かべた安寿もゆめに手を振った。

 突然の役目を終えてほっと両肩を落とした安寿のそばに航志朗がやって来た。航志朗はかがんで安寿の額に自分の額をそっとつけてささやいた。

 「安寿、君は本当に心優しいひとだな」

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