今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 午後の校舎の窓の外には青と白のコントラストの強い空が広がり、まだ真夏のような日射しが校庭を照らしている。

 今は昼休みだ。教室は朝からずっとクーラーがほどよく効いていて過ごしやすい。数人の睡眠不足の生徒たちが机に突っ伏して昼寝をしている。

 安寿と莉子、蒼と大翔の四人は、教室のすみでいつものように集まって一緒に昼食をとって過ごしていた。

 蒼はずっとスマートフォンを見ながらワイヤレスイヤホンをつけて何かを聴いている。

 突然、莉子が蒼の片方のイヤホンを取り上げて耳に当てた。

 「わっ! 蒼くん、これフランス語?」

 「ああ、そうだよ」

 不思議そうに莉子が訊いた。

 「どうして、フランス語なんか勉強しているの?」

 蒼が決然とした口調で答えた。

 「これから必要になるから」

 蒼はそっと莉子の耳からイヤホンを取り戻し、また耳に当てた。莉子は隣に座っている安寿を見た。安寿はポータブルCDプレーヤーのヘッドフォンをつけながら、書き込みがあちらこちらに記されている年季の入った英会話のテキストを読んでいる。莉子は何も言わずに頬杖をついて安寿を見守った。

 (安寿ちゃんは英会話の勉強が必要なんだよね。だって、海外で働いている岸さんの妻なんだもの)

 安寿が読んでいるテキストは航志朗が中学生の時に使っていたものだ。八月の終わりに安寿は伊藤に英会話の学習をしたいと相談した。すると、伊藤は岸家の書斎に長らく保管してあった英会話の本格的な学習セットを出してきて、CDプレーヤーも用意してくれた。

 伊藤からその話を聞いた華鶴は安寿のために英会話の家庭教師を雇おうとしたが、安寿はさすがにそれは遠慮した。

 休み時間に熱心に自習する安寿と蒼を前に、手持ちぶさたの莉子と大翔はどちらからともなく顔を見合わせた。にっこりと微笑んだ大翔は手を伸ばして、その大きな手のひらで莉子の髪をなでた。頬を赤らめた莉子は机の下で大翔の足にそっと自分の両足を絡めた。その様子ををちらっと蒼が見て、にやっと大翔に笑いかけた。

 二学期に入り三年生の生徒たちの間では、莉子と大翔のようにこの夏休み中に付き合いはじめたカップルが少なからず誕生していた。安寿と蒼も付き合っているという噂が流れていた。安寿が左手の薬指にしている指輪を見て、ふたりは婚約したという噂まで出ていた。それを安寿も蒼もまったく気にも留めなかった。体育会系で顔が広い大翔は、多数の男子生徒や女子生徒たちから安寿と蒼の関係について訊かれたが、知らないと答えていた。

 ますます安寿は絵を描くことにのめり込んでいた。安寿の目立って開花しはじめた突出した絵の迫力に、高校の生徒たちからも教師たちからも安寿は一目置かれるようになっていた。

 夏休みの課題を展示した秋の学内展覧会で、安寿は最優秀賞を取った。航志朗が「緑の時代」と称した緑したたる森の絵である。その報告を受けて大喜びした華鶴は、安寿に何か祝いの品をプレゼントすると言い出して、さっそく懇意にしている老舗呉服店に訪問着を注文した。安寿自身は他人からの評価はもはやどうでもよかった。本当のところ、安寿は航志朗への心苦しい想いを断ち切ろうとして、必死になって画筆を動かしていたのだ。安寿は岸のアトリエにいる時間が長くなった。岸と少し離れた場所にイーゼルを立てて、安寿は絵を描くことに没頭した。岸はそんな安寿を黙って見守った。

 毎週土曜日、安寿は画家のモデルになって岸の前に座る。土曜日以外は岸は顧客から注文を受けた風景画を描いている。九月に入ってから、岸は本格的な油彩の人物画に取り組みはじめた。ある大人物からの依頼を受けたのだ。それは、ニース在住のジャン=シトー・ドゥ・デュボアからだ。安寿の素描を大変気に入ったデュボアは、さっそく安寿をモデルにした油彩画を華鶴に注文してきた。もちろん華鶴は即決で受注した。

 十月の終わりのある土曜日の午後、その日の制作が終わった後に、初めて岸はモデルの安寿にある要望を申し入れた。

 「安寿さん。実は、お願いがあるのですが」

 岸の顔は少し青ざめていた。

 安寿はいつもとは違う岸の思いつめた様子にすぐ気づいたが、落ち着いて尋ねた。

 「はい。岸先生、なんでしょうか?」

 「不躾なお願いをして大変申しわけないのですが、髪を伸ばしていただけないでしょうか」

 突然の岸の思いもよらない申し出に、安寿は大きく目を見開いた。

 「私に髪を長く伸ばしてほしいということですか?」

 「はい。もちろんお嫌でしたら、遠慮なく断ってください」と岸はうつむきかげんに言った。

 安寿は微笑みながら努めて明るい口調で言った。

 「岸先生、わかりました。私、これから髪を伸ばします。あの、どのくらい伸ばせばよろしいでしょうか?」

 「できれば長く。……腰まで届くくらいに」

 岸は安寿と目を合わさずにそう言った。

 「わかりました、岸先生」

 明るいふりをして安寿は承諾した。

 その後、自室に戻った安寿はベッドの上に座ってため息をついた。

 (私の髪は、ずっとこの長さにしてきた) 

 安寿は肩まで伸びた黒髪の先端に手を触れた。

 (だって髪を伸ばしたら、……ママを思い出してしまうから)

 安寿の母の白戸愛は子どもの頃からずっと髪を長く伸ばしていた。事故で亡くなった時、祖母と叔母の恵と三人で棺桶に入れる前の母の長い髪をくしで梳かした覚えが微かにある。その記憶は重苦しい影になって安寿の頭の奥底にくいこみ、忘れかけた頃に安寿の夢に出てくる。

 (でも、私は岸先生のモデルなんだもの。ここにいられるのは岸先生のおかげ。仕方がない)

 またため息をついた安寿は髪を触りながらブックシェルフを見上げた。その棚には航志朗から贈られた品々が並んでいる。一番はじめにもらった天使像のデルフトタイル、日本画の天然岩絵具、ラファエル前派の画集、ローマングラスのペンダント。そして、下を向いた安寿は左手の薬指をそっとなでた。

 安寿はベッドから立ち上がるとバルコニーに出て夜空を見上げた。東京の空は夜でもうっすらと明るくて、星がわずかしか見られない。安寿は夏に航志朗と一緒に見上げた満天の星空を懐かしく思い出した。まだあれから二か月しか経っていないというのに、遠い昔の出来事のように感じる。でも、航志朗の身体の感触とあの匂いは鮮明に覚えている。突然、安寿は大きく身震いした。自分の腕で自分の身体を抱きしめる。二か月前に羽田空港で別れてから、航志朗から一度も連絡がない。航志朗は自分のことなんか忘れて、他の女性と過ごしているのだ。でも、航志朗を忘れようとしても、どうしても忘れられない。涙でぼやけてきた夜空を見上げて、胸をしめつけられながら安寿は思った。

 (今、彼はどこにいて何をしているのだろう。そして、彼の隣には……)

 胸のつかえに苦しみながら、安寿はバルコニーの手すりを強く握りしめてうつむいた。

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