今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 次の日の早朝、自室のベッドの中で目覚めた安寿は、枕元に置いてあったスマートフォンをしばらく見つめていた。

 昨夜からずっと安寿は迷っていた。

 (内部進学が決まったことを、航志朗さんにも早く報告したほうがいいよね。でも、お仕事忙しいだろうし、誰かと一緒だったら迷惑かもしれないし……)

 安寿は毛布にくるまったままでやっと決心した。

 (やっぱり彼に伝えよう!)

 勢いよく起き上がった安寿はスマートフォンを持った左手を目の前に掲げた。

 安寿はスマートフォンをスクロールした。「岸航志朗」と表示された画面を見て、きつく胸がしめつけられた。

 (わかってる。本当は彼の声が聞きたいだけ)

 だが、今は午前六時だ。航志朗がシンガポールにいるのなら現地時間は午前五時。アイスランドにいるのなら現地時間は午後九時。どちらにせよ、今、電話をするのは、航志朗に迷惑をかけてしまうだろうと安寿は考えた。深いため息をついてから、安寿はメールで報告することにした。

 航志朗さん

 お久しぶりです

 昨日、内部進学で大学に合格しました

 取り急ぎご報告まで

 安寿

 文面を何十回も読み返してから、安寿は全身を緊張させて送信ボタンをタップした。

 その頃、アイスランドの航志朗のアパートメントでは、エルヴァルの自邸で夕食をすませて帰宅した航志朗が、博士論文の執筆を始めようとノートパソコンを開いた。ふと航志朗は立ち上がって、目の前の曇った厚い窓ガラスを手で拭いて外を見た。遠くの空にグリーンとホワイトが入り混じったカーテンがゆらゆらと揺らめいている。カーテンの裾にはピンク色も見える。オーロラだ。そのまだ物珍しい美しさになぜか胸がふさぐのを感じながら、航志朗は思った。

 (今、安寿が隣にいたら、俺はオーロラどころじゃないんだろうな……)

 その時、聞き慣れないシンプルな電子音が鳴った。いつもやり取りしている相手以外からのメールが着信したのだ。航志朗はスマートフォンを何げなく開いて見た。その瞬間、目を大きく見開いた航志朗は、「あっ、安寿!」と思わず声に出してからメールに目を通して、すぐさま安寿に電話した。

 メールを送信したものの、まったく航志朗からの返信を期待していない安寿は、パジャマのままでベッドに座ってうつむきながら思った。

 (今、彼に会いたい。もう、どうしようもないくらい会いたい)

 安寿は固く目を閉じて左手を右手で強く握りしめた。

 突然、かたわらに置いてある安寿のスマートフォンが鳴り出した。画面を見ると航志朗からだ。心の底から驚いた安寿は全身がわななきながら、震える指先でなんとかタップした。

 「……航志朗さん」

 消え入りそうな声で安寿は航志朗の名前を呼んだ。

 『安寿……』

 はるか遠くの彼方から、安寿は自分の名前を呼ぶ懐かしい声を聞いた。

 「はい、航志朗さん」

 また安寿は航志朗の名前を呼んだ。

 『安寿、おめでとう! 来年の春から大学生だな』

 もう安寿の目の前の視界はぼやけてしまっている。

 「ありがとうございます……」

 なんとか安寿は航志朗に礼を言った。大学へ進学できるのは、航志朗のおかげなのだ。安寿の顎からぽたぽたと涙がしたたり落ちた。

 航志朗は続けて言った。

 『安寿、元気でいるよな?』

 「はい。航志朗さんもお元気ですか?」

 心のなかで悩ましげに航志朗は思った。

 (元気なわけないじゃないか。君と遠く離れているんだから)

 だが、航志朗はありきたりの返事をした。

 『ああ。まあ元気だよ。寒いけど』

 航志朗はまた思った。

 (寒いはずだ。君を抱きしめられないんだから)

 「寒い? では、今、アイスランドにいらっしゃるんですね」

 『ああ、そうだ』

 「あの、アイスランドって、どんなところなんですか?」

 『どんなところって。安寿、こっちに来いよ。一緒にアイスランドのランドスケープを見よう』

 それは航志朗の本心からの言葉だった。

 安寿は何も答えられなかった。

 (……そんなこと、できるわけない)

 『そうだ、写真を送ろうか。ああ、君は写真が嫌いだったな』

 「航志朗さんがアイスランドで撮った写真ですか?」

 『もちろん』

 「見てみたいです」

 『わかった。後で送るよ』

 ふたりの間にしばらく沈黙の時間が流れた。安寿と航志朗は今のふたりを分かつ遠いへだたりを感じずにはいられなかった。急に胸が苦しくなった航志朗は思わず声を絞り出すようにして言った。

 『安寿、俺は君に会いたい。今、君を思いきり抱きしめたい』

 一瞬、安寿は気持ちが揺らいだ。本心では「私もあなたに会いたい」と安寿は航志朗に言いたかった。だが、すぐに安寿は目を伏せた。

 (きっと、彼はアンさんにも同じことを言っているんだ)

 安寿は努めて感情を交えずに言った。

 「航志朗さん。そろそろ、私、お弁当をつくらないと。あの、温かくしてお身体に気をつけてください」

 いきなり別れを告げようとする安寿に航志朗は胸が痛んだ。

 『安寿、君もがんばりすぎるなよ』

 「はい。……では」

 自分からスマートフォンの画面をタップした安寿は深いため息をついた。

 大きなキャンバスを抱えた安寿は電車の中に立ち、いつのまにかいつもの朝の風景になった窓の外を眺めていた。

 (航志朗さんと結婚してから、もう七か月になるんだ)

 電車の窓の外の風景はいやおうなしに流れていく。大学進学が決まって三か月ぶりに航志朗の声を聞けたというのに、かえって安寿の気持ちは沈んでいた。目の前の光景が灰色にかすんで見える。

 (私のなかの彼を想う気持ちは、これからどこに行くんだろう……)

 ふと肩に掛けたスクールバッグの中のスマートフォンが鳴った気がした。安寿はスマートフォンを取り出して画面を見てみると、航志朗からメールが来ていた。安寿はキャンバスを足元に置いてメールを開いた。そこには五枚の画像が添付されていた。ゆっくりと安寿は画面をスクロールしていった。

 一枚目は、溶岩の崖が連なり溶岩台地をどこまでも覆う苔が生えている風景で、二枚目は、真っ青な空に噴き出す真っ白な間欠泉。三枚目は、一面の氷河。四枚目は、蛍光グリーンのオーロラが浮かぶ夜空だった。
 
 (五枚目は、……アイスランドのお菓子、かな?)

 チョコレートコーティングされた丸い大きなケーキのようなものが、湯気の立つコーヒーと一緒に写っている。五枚目だけは航志朗のコメントが記されていた。
 
 「スヌーズル」っていう、アイスランドの菓子パン

 よく行くカフェのたっぷりチョコレートがかかったシナモンロールだ

 俺たちにうってつけだよな。安寿、半分こしよう!

 思わず安寿はくすっと笑ってしまった。でも、ここは電車の中だ。あわてて安寿は口を手で押さえた。画面をスクロールして、また一枚目からじっくりと見入った。送られてきた画像には生き生きとした原始的な色彩があふれかえっていて、安寿は目を見張った。航志朗から贈られた天然岩絵具の色のようだ。

 (いつかこの目で見てみたい……)

 安寿は顔を上げた。目の前の風景に明るい色彩が戻ってきたような気がした。

 
< 134 / 471 >

この作品をシェア

pagetop