今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ふと安寿は誰かの視線を感じて、唇を重ねながら航志朗の肩ごしに車の窓の外を見た。

 「あっ」

 安寿は思わず赤くなった。黄色い帽子を被り水色のギンガムチェックのスモックを着た三人の園児たちがぽかんと大きく口を開けながら、車の窓にへばりついて中をのぞき込んでいる。

 「ん?」

 安寿の驚いて固まった様子に気づき、航志朗は振り返った。航志朗ものぞき見している園児たちに気がついた。すると、離れたところから二人の若い保育士がものすごい形相で走って来て、その園児たちを背後から回収した。大きなリュックサックを背負った保育士たちは、ひよこのアップリケがついたおそろいのエプロンを着ていた。顔を真っ赤にした彼女たちは航志朗と安寿に向かって「すいません」という口の形を作って頭を下げ、あたふたと園児たちを抱き上げて車から離れて行った。

 安寿と航志朗はそれを呆然と見送った。ふたりは顔を見合わせた。航志朗は笑い出したが、安寿は頬を赤らめて下を向いた。航志朗はそんな安寿の前髪をかき分けて、安寿の額に手を置いた。

 「安寿、熱いな。また熱が出たんじゃないのか?」とからかうように航志朗が言った。安寿は航志朗の手首をぎゅっと握って頬をふくらました。

 「航志朗さんのせいですよ!」

 胸を弾ませて航志朗は思った。

 (もうどうしようもないくらい、安寿が愛おしくてたまらない)

 その時、ふと車の窓の外を見た安寿は何かを思い出した。何も言わずに安寿は車を降りた。航志朗が不思議そうに安寿を見つめた。安寿は小川のそばまで行き、流れる川面の底をのぞき込んだ。安寿の瞳に灰色の影が浮かんだ。ずっと忘れていた何かの光景が安寿の脳裏に浮かび上がってきた。真っ白な風景のなかに、数人の人影がおぼろげに見えてくる。

 航志朗も車を降りて安寿の背後に立った。安寿は小川の流れを目で追うと、対岸にたたずむ河川標識が目に入った。それは古びて錆だらけだ。安寿は標識の文字を口に出して読んだ。

 「一級河川、姫君落川(ひめぎみおとしがわ)……」

 安寿の耳の奥に、遠くから誰かの泣き声が聞こえてきた。

 航志朗が安寿の後ろから言った。

 「この川の名前、興味深いだろ? 何か言われがあるのかもしれないな」

 さっと表情を曇らせて、安寿は急に寒気を覚えたかのように両腕を胸の前に組んで震え出すと、その場に安寿はうずくまった。

 「安寿、どうした?」

 航志朗があわててしゃがんで安寿の背中を支えた。

 安寿は航志朗に淡々と言った。

 「私、ここに来たことがあります」

 航志朗はわけがわからずに安寿の背中に手を置いて、安寿を見つめた。

 「十四年前、私、ここに来ました。祖父母と叔母と一緒に」

 「安寿……」

 思わず胸騒ぎがして、航志朗は眉間にしわを寄せた。

 「ここで、ママが、……亡くなったから」

 目を閉じた安寿は航志朗に抱きついた。青ざめた航志朗は安寿をきつく抱きしめた。

 そこには、五歳の安寿が立っていた。とても寒い。あたりは雪景色で真っ白になっている。

 安寿は祖父と手をつないでいる。赤い毛糸の手袋をしていても感じる祖父の大きな手は温かい。

 目の前にきれいな小川が薄い氷の破片を浮かばせながら流れている。絵本のなかの小さなお姫さまが葉っぱのお船に乗って遊んでいそうな川だ。安寿は小さなお姫さまの姿を探した。

 さっきからずっと祖母と叔母は抱き合いながら泣いている。叔母は手に小さな花束を持っている。

 叔母はその花束を岸辺にそっと置き、しゃがんで手を合わせて目を閉じた。安寿が見上げると祖父母も目を閉じて手を合わせている。安寿も大人たちのまねをして手を合わせて目を閉じた。

 目を開けた祖父が安寿の頭を優しくなでた。

 安寿は指をさして祖父に訊いた。

 「おじいちゃん、あれ、なんてかいてあるの?」

 「ひめぎみおとしがわって書いてある。この川の名前だよ。昔むかし、どこかの国のお姫さまが、この川に落ちてしまったのかもしれないな」

 「あんじゅのママみたいに? わかった! あんじゅのママって、おひめさまだったんだね」

 祖母と叔母は大声で泣き出した。

 また真っ白な雪がひらひらと舞い降りてきた。この世の哀しみのすべてを覆うように。

 小さな安寿は灰色の空に向かって両手を広げた。大きな翼を広げるように。

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