今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿は目を閉じた。突然、安寿のなかにいろいろな色の牛たちがなだれ込んできた。おそらく百頭くらいか、それ以上の牛たちだ。彼らはやかましく鳴いている。精力があり余っているのだ。

 昨年の夏に航志朗が弾いてくれたピアノソナタの第三楽章も安寿の耳の奥に大音響で流れてきた。たくさんの牛たちが安寿のなかでいっせいに勢いよく走り出した。凄まじい地響きが大地を震わす。牛たちは天を目指してて大地を蹴り、大空へと駆け上がって行く。安寿は目を開けて上を見上げた。安寿の顔は紅潮し、その黒い瞳は一気に輝きだした。

 航志朗は安寿の様子をずっと見守っていた。クルルも安寿の姿をじっと観察していた。安寿は航志朗の隣でおとなしく座っているが、安寿の瞳が何かをとらえたのが航志朗にはわかる。

 今、安寿は目に見えないものを見ているのだ。
 
 安寿は目の前に存在する何かをこの手でつかみたいと心の底から願った。安寿の両手は膝の上で固く握られて揺れ動いている。

 (これは面白くなってきたな。予想の斜め上をはるかに超えて)

 航志朗は胸の内で心を震わせた。その場で航志朗は安寿を思いきり抱きしめたくなったが、なんとかそれを押しとどめた。クルルが言った通り、「クオリティが下がる」からだ。今はギャラリストとして安寿を見守ることしか許されない。

 クルルはアタッシェケースを開けて、中からタイルと透明なアクリル板を取り出した。どこかで見たことがある大きさだ。その一枚を手に取った安寿は航志朗に笑いかけた。

 「これって、あのデルフトタイルと同じくらいの大きさですね」

 航志朗は初めて気づいたかのように言った。

 「そういえば、そうだな」

 航志朗はひそかに思った。

 (あのキューピッド、抜かりなく仕事をしてくれたのかもしれないな。……たぶん)

 安寿はクルルをまっすぐに見て言った。

 「クルルさん、私、精いっぱい描きます。ぜひ私に描かせてください」

 「アンジュさん、ありがとう」

 クルルは心から笑顔になった。安寿とクルルは両手で固く握手をした。航志朗は腕を組んでふたりを温かいまなざしで見つめた。

 伊藤と咲はその三人の様子をサロンのすみで見守っていた。頃合いを見はからって咲が言った。

 「さあ、少し早いですが、お夕食にいたしましょうか。安寿さまと航志朗坊っちゃんはお昼食を召しあがっていらっしゃらないんですから、お腹が空いたでしょう。すぐにご用意いたしますね」

 思わず安寿と航志朗は顔を見合わせた。

 その時、急に安寿が思い出したように言った。

 「これから、私、アトリエに行って来ます。先程、岸先生がご用がおありだったみたいなので」

 安寿は立ち上がってサロンを出て行った。航志朗が顔をしかめて安寿の後ろ姿を見送った。

 小走りで安寿はアトリエに向かった。外は薄暗くなってきている。アトリエのドアをノックしてから安寿は中に入った。岸は窓の外の森を眺めていた。岸は振り返って優しく微笑みながら言った。

 「安寿さん、高校ご卒業おめでとうございます」

 一瞬で表情を崩した安寿は深々とお辞儀をして礼を言った。

 「本当にありがとうございます。岸先生のおかげで、私は高校を卒業することができました。いつも岸先生が私を励ましてくださったから……」

 そう言うと安寿は涙ぐんだ。岸はその琥珀色の瞳を優しく光らせて言った。

 「私は何もしていませんよ。安寿さんがもともと持っていらっしゃった『美しい力』に、ご自身で気づかれたんですよ」

 岸は古いデスクの引き出しを開けて中からブローチを取り出した。そして、岸はそっと安寿の左胸にブローチをつけて言った。

 「卒業のお祝いにあなたに贈ります。古いもので申しわけありませんが」

 安寿はブローチにそっと手を触れた。わけのわからない切ない気持ちが安寿の胸を刺した。

 安寿は小声で岸に礼を言った。

 「ありがとうございます。きれい。百合の花ですね」

 岸は哀しげな瞳でうなずいた。

< 151 / 471 >

この作品をシェア

pagetop