今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ふたりのその様子を岸が食事室のドアのすき間から見ていた。

 岸は音もなく食事室を出て行った。入れ替わるように咲が台所から食事室に入って来た。咲はサロンへ続く少し開いたドアから、パジャマ姿の安寿と航志朗がピアノの前に座って抱き合っているのを見た。咲は顔を赤らめて微笑み、左手を頬につけて考え込んだ。

 (おふたりのご結婚式には、何を着ていこうかしら……)

 航志朗は安寿の紅潮した頬にキスしてから愉しそうに言った。

 「今度はラフマニノフを弾くよ。彼の曲はロマンチックで甘美だから、もっと気持ちよくしてあげるよ」

 また航志朗は鍵盤に手を置いた。安寿はあわててその手に自分の手を重ねて言った。

 「とりあえず朝食にしましょう、航志朗さん。私、フレンチトーストをつくります。ええと、四人分ですよね?」

 安寿は航志朗の両脚の間から抜け出て長椅子から立ち上がったが、バランスを崩してよろけた。すぐに航志朗が安寿を抱きとめた。

 「足がしびれちゃって……」と安寿は言いわけをした。航志朗は肩を揺すって大笑いしてから言った。

 「俺がつくるよ。君は座っていたほうがいいな。そうか、そんなにも刺激的だったんだ。君の反応が面白いから、またやりたい」

 真っ赤になった安寿は言葉を失った。

 それでも安寿は意地になって台所に行った。すると、いきなり隣の小部屋から咲が出て来て、にこやかに安寿に朝のあいさつをした。軽く飛び上がって安寿が言った。

 「咲さん、今日は土曜日ですし、朝食は私がつくります」

 咲は笑顔で言った。

 「お客さまがいらっしゃっているのですから、安寿さまのお手伝いをしますよ」

 胸の内で安寿は困惑しながら思った。

 (さっきの、咲さんに見られてないよね……)

 グランドピアノのふたを閉じた航志朗も台所にやって来た。航志朗はパジャマの袖をまくって、実に手慣れた様子で冷蔵庫から卵を四つと牛乳を取り出して卵液をつくり、半分に切った食パンを浸した。そして、熱したフライパンにバターを入れて溶かし、食パンを焼きはじめた。

 手を出せずに呆然と立ちつくしている安寿に航志朗が言った。

 「そうだ、安寿。君は仕事があるから、これから家事は俺が全部やる。君は制作に集中しろ。……俺が君のパンツも洗濯するから」

 安寿は言葉を失った。安寿の隣で咲が口に手を当てて可笑しそうに笑った。

 バターの香ばしい香りがしてきた。まだ岸もクルルもやって来ない。とりあえず、安寿と航志朗は先に二人で朝食をとった。

 咲が山盛りのイチゴをふたりの前に置いた。航志朗がイチゴを指でつまんで安寿の口の前に運んだ。咲が台所に戻ったのを目で確認してから、安寿は顔を赤らめながらおずおずと口を開けた。航志朗はイチゴを安寿の口の中に入れた。そして、航志朗は安寿に向かって無邪気に口を開けた。苦笑いしながら安寿はイチゴを航志朗の口に運んだ。航志朗は大きく口を開けて、安寿の指ごとイチゴを口の中に入れて唇を閉じた。安寿は軽く悲鳴をあげて目を丸くした。

 航志朗は台所に行って自分のコーヒーと二人分の紅茶を淹れた。安寿と咲の分だ。航志朗は遠慮する咲を椅子に座らせて、ティーカップを咲の前に置いた。咲は嬉しそうに顔をほころばせて航志朗が淹れた紅茶を飲んだ。

 安寿は航志朗と咲の姿を微笑ましく見つめながら、昨年の秋の出来事を思い出していた。

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