今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
ノックをしてアトリエに入ると、岸はスツールの上にのせた花瓶に生けた百合の花をスケッチをしていた。岸は安寿の姿を見て驚いた様子で言った。
「安寿さん、これから航志朗のマンションに行って、クルルさんから依頼された絵の制作を始めるのでは?」
安寿は微笑んで言った。
「今日は土曜日ですから、モデルのお仕事が終わってからにします」
安寿はアトリエのデスクにトレイを置いて、ティーポットからカップに紅茶を注いで言った。
「岸先生、よろしかったら、ご朝食はいかがですか」
岸は安寿に礼を言って紅茶を飲み始めた。安寿は窓辺に行って裏の森を眺めた。岸は安寿の後ろ姿を黙って見つめた。
安寿がアトリエに行って、二時間が経過した。サロンのローテーブルにノートパソコンを置いて仕事をしていた航志朗は、我慢できずに立ち上がってアトリエに向かった。航志朗の落ち着かない様子をずっと冷静に観察していたクルルは眉をひそめて航志朗の後ろ姿を見送った。
ノックもせずに航志朗はアトリエのドアを開けた。テレピン油の匂いする。油絵具がのったパレットと画筆を持った父の後ろ姿が目に入った。大きなキャンバスはまだ下塗りの段階だ。ブラウン系の色で大まかに明暗が描かれた下地の上に、ところどころ色が置かれている。その先には、真紅の肘掛け椅子に座った着物姿の安寿が見えた。
思わず航志朗は息を呑んだ。安寿は真っ白な百合の花を持っている。深い紺色の着物に白い百合の花と白い帯が強烈なコントラストを作っている。清楚ではかなげだが、何事にも揺るがない力強さを感じさせる。安寿は一点を見つめていて集中し微動だにしない。
航志朗がアトリエにやって来たことに、安寿はまったく気がつかない。モデルになって画家の前に座る安寿を航志朗は初めて見る。画家とモデルの間には誰も寄せつけない張りつめた緊張感が漂っている。足がすくんだ航志朗はどうしてもアトリエの中に入ることができなかった。一瞬、岸が振り返り、航志朗を見た。
航志朗は足元から自分の感情が煮えたぎってくるのを自覚した。この感情は分析するまでもない。
(俺は心の底から怒っている。そして、憎んでいる。俺が愛する彼女を描く画家を。……父を)
その時、突然、航志朗は背後から声をかけられた。
「あら、航志朗さん」
華鶴だった。華鶴は航志朗を一瞥してまた言った。
「まあ、怖い顔」
くすりと上品に口に手を当てて微笑んで華鶴は言った。
「安寿さんのお着物、素敵でしょ。ずいぶん探したのよ。懇意の呉服屋さんのつてを頼ってね。昭和初期に織られた反物を使ったお着物なの。博物館に収められていてもおかしくはないわ。だって、あのお方に依頼された絵ですもの、経費は度外視よ」
航志朗は眉間にしわを寄せて訊いた。
「あのお方?」
「もちろん、ジャン=シトー・ドゥ・デュボア氏よ。絵が完成したら、またあなたにはニースに行っていただくわ」
華鶴は目を細めて安寿を見て言った。
「彼女、ますますきれいになったでしょ。あなたも心穏やかではいられないわね。結婚制度なんて、類まれな才能を持った安寿さんにとっては、まったく意味をなさないわ。図星でしょ?」
こぶしを握りしめて航志朗は華鶴をにらみつけた。
華鶴は母屋に戻って行った。航志朗は無言でアトリエの中に入り、岸の後方の壁に寄りかかって腕を組んだ。すぐに安寿は航志朗がアトリエにやって来たことに気づいた。すぐに安寿の集中が途切れた。百合の花を持つ手が微かに揺れる。それに構わず岸は絵を描き続けた。キャンバスに画筆が擦られる音だけがアトリエに響く。
正午を過ぎた。岸が画筆を筆洗油ですすぎ、古布でぬぐった。岸は静かな口調で安寿に言った。
「安寿さん、今日はこれで終わりにしましょう。クルルさんをお待たせしてしまっていますから」
安寿はうなずいて立ち上がり、百合の花を花瓶に生けた。先に岸は黙って出て行った。
アトリエの中で安寿と航志朗は二人きりになった。航志朗は早足で駆け寄り、安寿を強く抱きしめた。いつもとは違う力の込め方だ。力ずくで抱きすくめられる。
「……航志朗さん?」
わけがわからずに安寿は思わず航志朗の名前を呼んだ。いきなり航志朗は安寿にキスした。まるで噛みつくかのように乱暴に。安寿は航志朗をなだめるかのようにその背中に手を回して優しくなでた。航志朗は唇を離して、安寿の肩に顔を埋めて言った。
「ごめん、安寿」
安寿は首を振って小さな声でゆっくりと言った。
「航志朗さん、そろそろ行きましょうか」
航志朗はわずかにうなずいたが、その場でまた安寿をきつく抱きしめた。
「安寿さん、これから航志朗のマンションに行って、クルルさんから依頼された絵の制作を始めるのでは?」
安寿は微笑んで言った。
「今日は土曜日ですから、モデルのお仕事が終わってからにします」
安寿はアトリエのデスクにトレイを置いて、ティーポットからカップに紅茶を注いで言った。
「岸先生、よろしかったら、ご朝食はいかがですか」
岸は安寿に礼を言って紅茶を飲み始めた。安寿は窓辺に行って裏の森を眺めた。岸は安寿の後ろ姿を黙って見つめた。
安寿がアトリエに行って、二時間が経過した。サロンのローテーブルにノートパソコンを置いて仕事をしていた航志朗は、我慢できずに立ち上がってアトリエに向かった。航志朗の落ち着かない様子をずっと冷静に観察していたクルルは眉をひそめて航志朗の後ろ姿を見送った。
ノックもせずに航志朗はアトリエのドアを開けた。テレピン油の匂いする。油絵具がのったパレットと画筆を持った父の後ろ姿が目に入った。大きなキャンバスはまだ下塗りの段階だ。ブラウン系の色で大まかに明暗が描かれた下地の上に、ところどころ色が置かれている。その先には、真紅の肘掛け椅子に座った着物姿の安寿が見えた。
思わず航志朗は息を呑んだ。安寿は真っ白な百合の花を持っている。深い紺色の着物に白い百合の花と白い帯が強烈なコントラストを作っている。清楚ではかなげだが、何事にも揺るがない力強さを感じさせる。安寿は一点を見つめていて集中し微動だにしない。
航志朗がアトリエにやって来たことに、安寿はまったく気がつかない。モデルになって画家の前に座る安寿を航志朗は初めて見る。画家とモデルの間には誰も寄せつけない張りつめた緊張感が漂っている。足がすくんだ航志朗はどうしてもアトリエの中に入ることができなかった。一瞬、岸が振り返り、航志朗を見た。
航志朗は足元から自分の感情が煮えたぎってくるのを自覚した。この感情は分析するまでもない。
(俺は心の底から怒っている。そして、憎んでいる。俺が愛する彼女を描く画家を。……父を)
その時、突然、航志朗は背後から声をかけられた。
「あら、航志朗さん」
華鶴だった。華鶴は航志朗を一瞥してまた言った。
「まあ、怖い顔」
くすりと上品に口に手を当てて微笑んで華鶴は言った。
「安寿さんのお着物、素敵でしょ。ずいぶん探したのよ。懇意の呉服屋さんのつてを頼ってね。昭和初期に織られた反物を使ったお着物なの。博物館に収められていてもおかしくはないわ。だって、あのお方に依頼された絵ですもの、経費は度外視よ」
航志朗は眉間にしわを寄せて訊いた。
「あのお方?」
「もちろん、ジャン=シトー・ドゥ・デュボア氏よ。絵が完成したら、またあなたにはニースに行っていただくわ」
華鶴は目を細めて安寿を見て言った。
「彼女、ますますきれいになったでしょ。あなたも心穏やかではいられないわね。結婚制度なんて、類まれな才能を持った安寿さんにとっては、まったく意味をなさないわ。図星でしょ?」
こぶしを握りしめて航志朗は華鶴をにらみつけた。
華鶴は母屋に戻って行った。航志朗は無言でアトリエの中に入り、岸の後方の壁に寄りかかって腕を組んだ。すぐに安寿は航志朗がアトリエにやって来たことに気づいた。すぐに安寿の集中が途切れた。百合の花を持つ手が微かに揺れる。それに構わず岸は絵を描き続けた。キャンバスに画筆が擦られる音だけがアトリエに響く。
正午を過ぎた。岸が画筆を筆洗油ですすぎ、古布でぬぐった。岸は静かな口調で安寿に言った。
「安寿さん、今日はこれで終わりにしましょう。クルルさんをお待たせしてしまっていますから」
安寿はうなずいて立ち上がり、百合の花を花瓶に生けた。先に岸は黙って出て行った。
アトリエの中で安寿と航志朗は二人きりになった。航志朗は早足で駆け寄り、安寿を強く抱きしめた。いつもとは違う力の込め方だ。力ずくで抱きすくめられる。
「……航志朗さん?」
わけがわからずに安寿は思わず航志朗の名前を呼んだ。いきなり航志朗は安寿にキスした。まるで噛みつくかのように乱暴に。安寿は航志朗をなだめるかのようにその背中に手を回して優しくなでた。航志朗は唇を離して、安寿の肩に顔を埋めて言った。
「ごめん、安寿」
安寿は首を振って小さな声でゆっくりと言った。
「航志朗さん、そろそろ行きましょうか」
航志朗はわずかにうなずいたが、その場でまた安寿をきつく抱きしめた。