今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 翌朝、目覚めた航志朗は手を伸ばしてすぐに安寿を抱き寄せようとしたが、隣に安寿の姿はなかった。あわてて航志朗はすぐに起き上がって、頭をかきながらスマートフォンの時計を見た。午前七時だ。航志朗はとうとう彼の朝の定番になってしまったひとりごとを言った。

 「まったく俺より先にベッドから出るなって、言ったはずだよな……」

 航志朗が一階に下りると、パジャマのままの安寿がタイルに向き合って下書きを描いていた。すでに十数枚が描き上がっていて、ダイニングテーブルに並べてある。髪も寝起きのままの安寿は、航志朗がやって来たことにまったく気がつかない。航志朗は切なくため息をついた。

 (アーティストの妻を持った夫って、こんなにもつらいものなのか。思いきり彼女を抱きしめてキスしたいのに、当分の間おあずけか……)

 航志朗は二階に行って着替えて、近所のベーカリーに朝食用のパンを買いに出かけた。

 クルルはまだ起きて来ない。相変わらず安寿は絵を描いている。とりあえず航志朗は湯を沸かしながらオムレツをつくった。ホテルのシェフが腕をふるったような美しいオムレツだ。トマトとキュウリもカットしてプレートに一緒に並べた。洗ったイチゴはガラスボウルに入れた。それから、コーヒーとミルクティーを入れて、航志朗はダイニングテーブルに運んだ。

 安寿は絵を描く手を止めない。航志朗のことも彼が淹れた湯気の立つミルクティーも安寿は認識していないのだ。また航志朗は切なくため息をついた。しばらく隣でコーヒーを飲みながら、航志朗は安寿を見つめていた。

 ふと航志朗は思いついて、買って来たシナモンロールをひと口大にちぎって、安寿の口の前に出してみた。すると、安寿は航志朗の手からぱくっと口の中に入れた。そして、航志朗ににっこりと微笑んで、明るい声でやっと朝のあいさつをした。

 「航志朗さん、おはようございます」

 「……おはよう、安寿」

 航志朗はたまらずに安寿の頬に強く唇を押しつけた。安寿はぽっと頬を赤らめた。

 「朝食つくったけど、温かいうちに食べたら?」

 「はい。ありがとうございます。いただきます」

 ウォールナットブラウンのアクリル絵具がついた指先でフォークを持って、安寿は航志朗がつくったオムレツを食べた。そして、大きなイチゴを口にほおばったままで、また安寿は絵を描き出した。航志朗は感心しつつも、半ばあきれたように言った。

 「安寿、着替えてきたら?」

 「あ、はい。そうします」

 安寿は素直に立ち上がって二階に行った。

 (やれやれ、ものすごい集中力だ。しかし、まったくもって俺のことはほったらかしだな)

 航志朗は肩を落として首を振った。

 ダイニングテーブルの上で安寿はアクリル絵具で下書きを描いている。航志朗はノートパソコンを広げて仕事をしていた。午前十時すぎにクルルが起きて来た。クルルは安寿が下書きを描いたタイルを手に取って言った。

 「コウシロウ、アンジュは凄まじいアーティストだな。僕の予想をはるかに超えている。彼女、君の妻にしておくには、非常に『モッタイナイ』な」

 クルルはさっそく覚えた日本語を愉快そうに使った。思わず航志朗はクルルをじろっとにらんだ。クルルは腰に手を当ててひとしきり笑ってから、ダイニングテーブルの上に置かれていたシナモンロールをかじった。それはクルルの好物でもあった。

 昼食は近所のイタリアンカフェに行った。大きな植物園を借景にしたカフェは日曜日ということもあってにぎわっていた。航志朗のマンション周辺は各国の大使館が立ち並んでいる地域だ。当然カフェの客たちは国際色豊かだった。

 三人はマルゲリータピザとシーフードパスタをシェアした。ピザをひと口かじった航志朗は安寿に身を寄せて、その耳元に甘くささやいた。

 「安寿、また君がつくったピザが食べたい。もちろん二人きりの時に」

 安寿は赤くなってうつむいた。クルルはそんなふたりにまったく構わずにピザを黙々とかじった。

 ふと安寿は植物園の背の高い大きな樹木を見上げた。まだ芽吹いていない裸の枝が擦れ合った音を立てて揺れている。一瞬だが、つかみどころのない胸騒ぎがして、安寿は航志朗を不安げに見つめた。航志朗は安寿の手を取ってテーブルの下でそっと握った。しっかりと安寿も握り返した。安寿はいつも通りのひんやりとした航志朗の手に安心感を持った。春の生温かい風が安寿の髪を柔らかく梳く。安寿は目を閉じて、また牛たちの足音に耳をすませた。

 帰宅すると安寿はまた絵を描き始めた。航志朗とクルルはノートパソコンを見ながら美術館の展示方法について打ち合わせをした。予定通り六月下旬にオープンできそうだ。

 航志朗とエルヴァルとの間のコンサルティング契約は六月末で任期満了を迎える。六月末にはイギリスの大学院の博士論文の提出期限もある。そして、七月には博士学位授与の審査結果が出る。航志朗は大きな期待をつのらせて思う。あと三か月だ。あと三か月頑張れば、すべてが一段落する。そうすれば、安寿に会いに帰国する頻度を高めることができる。航志朗は安寿の隣に座って、ひそかに胸を震わせた。

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