今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 午後八時に航志朗はマンションに戻った。黒川家を後にしてから、苛立つ感情を落ち着かせるために、あてどなく街をうろついてからの遅い帰宅だった。

 笑顔の安寿が航志朗を玄関に出迎えて言った。

 「おかえりなさい、航志朗さん。今夜の夕食はお好み焼きですよ。伊藤さんがホットプレートを用意してくださったんですよ。お腹空いたでしょ? さっそく焼きはじめますね」

 何も言わずに航志朗はいきなり安寿を抱きしめた。安寿はきょとんとした表情で航志朗を見つめた。航志朗は力を込めてきつく抱きしめてくる。安寿は航志朗の顔が心なしか青ざめているような感じがして胸中が騒めいた。

 安寿は航志朗の背中に手を回して尋ねた。

 「航志朗さん、何かありましたか?」

 航志朗は安寿と目を合わせないでうつむいて言った。

 「お腹空いたな。夕方には帰ると言っておきながら、遅くなってすまなかった。安寿、夕食にしよう。手を洗ってくる」

 航志朗は安寿の身体を離して洗面脱衣室に向かった。安寿はその後ろ姿を不安げなまなざしで見送った。

 意外にもクルルはお好み焼きを気に入ってたくさん食べた。クルルは楽しそうにホットプレートにのった生地を何回もターナーでひっくり返していた。安寿はクルルが無邪気におままごとセットで遊んでいるように見えて心から笑ってしまった。

 航志朗はずっと何かを考えているようで、話しかけてもうわの空だった。夕食の後片づけは安寿とクルルがした。航志朗は先に風呂に入るとソファに座って腕を組んで目を閉じた。クルルが書斎に行った後、安寿は風呂に入ってリビングルームに戻って来た。航志朗は目を閉じたままだ。安寿は航志朗に声をかけた。

 「航志朗さん、ベッドで眠ったほうがいいですよ。このまま眠ってしまったら、風邪をひいてしまいますから」

 航志朗は目を開けて安寿を見て言った。

 「君と一緒じゃないと嫌だ。ここで待っている」

 安寿はため息をついた。二階から毛布を持って来て航志朗に掛けてから制作に戻った。航志朗は集中して絵を描き始めた安寿を無言で見つめた。

 午前二時を過ぎた。安寿はずっと牛の絵に色を塗っている。明日中にはなんとか百枚の絵を完成させることができそうだ。安寿はふと我に返って思った。

 (あさっての夕方には、航志朗さんとクルルはアイスランドへ行ってしまうんだ。一週間が経つのって、なんて早いんだろう。高校の卒業式がもう遠い昔のよう……)

 窓の外の夜空を見上げて、また安寿は思った。

 (蒼くんは無事にパリへ着いたのかな。パリって、どんなところなんだろう)

 航志朗は安寿のもの想いにふける様子に気がついた。

 航志朗が温かいほうじ茶を淹れてきた。ソファに座って安寿と航志朗はゆっくりとほうじ茶を飲んだ。やがて、航志朗が安寿の肩に手を回して抱き寄せた。安寿は航志朗の腕の中で力を抜いて目を閉じた。今すぐにでも眠ってしまいそうだ。航志朗は安寿の顎をそっと持ち上げて唇を重ねた。

 ふたりは見つめ合った。安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。その瞳の奥がなんとなく不規則に揺れているような感じがして、安寿の脳裏に嫌な予感がよぎった。

 航志朗は安寿をきつく抱きしめて言った。

 「安寿、一緒に寝よう」

 小さく安寿はうなずいた。航志朗は安寿の腰に手を回しながら二階に上がった。ふたりはベッドに横になった。安寿は航志朗から離れてベッドのすみに寄ろうとしたが、航志朗は後ろから安寿を抱きすくめた。

 やがて、安寿は、航志朗の様子がいつもと違うことに気づいた。やっとそれを意識して、安寿の頬はみるみる赤くなっていった。

 後ろから回された航志朗の手が両胸に触れている。その手はゆっくりとまさぐるように動く。初めての感触に身体の奥がとろけて、心ならずも吐息をもらしてしまう。

 航志朗は安寿の耳元で苦しそうに低い声でうめいた。

 「安寿、君は俺のものだ。誰にも渡さない」

 航志朗は安寿を強引に向き直らせて、いきなり唇を重ねてきた。唇をこじ開けられて舌をねじ込まれる。また胸を触られる。だが、不安感が甘い陶酔を払拭する。きっと外出している間に、航志朗の身に何かあったのだ。

 荒々しくキスされながらも安寿は目を開けて苦しそうな航志朗を見つめた。そして、胸に触れている航志朗の手にそっと自分の手を重ねた。その瞬間、航志朗の手の動きが止まった。だが、それは一瞬のことで、身体を震わせながら航志朗は安寿にすがりついて吐き出すように叫んだ。

 「安寿、皓貴さんには絶対に近づくな。頼むから近づかないでくれ!」

 安寿は「皓貴さん」という航志朗の言葉に胸の鼓動を早めた。安寿は航志朗をしっかりと抱きしめて言った。

 「わかりました。航志朗さん」

< 165 / 471 >

この作品をシェア

pagetop