今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 莉子と大翔とクルルがマンションから出て行って、安寿は航志朗と二人きりになった。

 急に部屋の中が静まり返った。安寿は航志朗が淹れてくれたミルクティーにハチミツをたくさん入れて飲んでから、リビングルームに敷かれた水色のビニールシートの上に並べられた牛たちのところに行って腰を下ろした。

 安寿は手元にあるタイルの上の牛たちを愛おしそうになでた。この一週間、ずっと気を張っていた心と身体が緩んでくるのを感じる。安寿はビニールシートの上に寝そべって身体を伸ばした。

 深くひと呼吸してから安寿はつぶやいた。

 「終わった。よかった、間に合って」

 コーヒーを飲んでいた航志朗が立ち上がって安寿のそばに座った。

 「安寿、よくやったな。本当にありがとう」

 「いいえ。お礼を言うのは私のほうです。皆のおかげで完成させることができました。航志朗さん、本当にありがとうございました」

 目を細めて航志朗は仰向けになった安寿の黒髪をなでた。そして、かがんで安寿に口づけた。コーヒーの苦い味がするキスだ。柔らかい朝の光が窓から降り注いできて安寿を照らした。白く輝いた安寿の姿は輪郭があいまいになった。航志朗はまぶしそうに安寿を見つめた。たまらずに航志朗は覆いかぶさって安寿を抱きしめた。安寿は航志朗の背中にそっと腕を回した。

 しばらくふたりは水色のビニールシートの上で抱き合っていた。安寿が航志朗の耳元で言った。

 「航志朗さん、私たち、なんだか空の上にいるみたいですね」

 「……そうだな」
 
 航志朗の琥珀色の瞳が朝の光を取り込んで金色に光った。安寿は航志朗の胸に顔をうずめながら思った。

 (また彼は行ってしまうんだ。遠い遠い空の彼方へ)

 安寿は航志朗の背中に回した腕の力を強めた。

 安寿と航志朗は見つめ合い、また唇を優しく重ねた。そして、だんだん激しく重ね合い互いを求め合う。航志朗は安寿の首筋に口づけながら、ゆっくりと安寿のパジャマのボタンを上から外し始めた。安寿は航志朗の指先をぼんやりと見つめた。すぐに航志朗はそれに気づいて顔を赤らめた。安寿はパジャマの下に何も着ていない。安寿の胸が露わになった。
 
 安寿は不思議に思った。

 (どうしてなの。ぜんぜん恥ずかしくない。でも……)

 安寿は消え入るような小声で言った。
 
 「航志朗さん、私、胸が小さいんです。ごめんなさい」

 航志朗は微笑んでゆっくりと首を振った。そして、安寿の耳に顔を寄せて甘くささやいた。

 「安寿、きれいな胸だね」

 航志朗は心から思った。

 (絵に描きたいくらいに君は美しいよ、安寿)

 安寿は胸の内でひそかに思った。

 (「きれいな胸」って、きっとたくさん見てきたから言える言葉だよね……)

 航志朗は安寿の手を柔らかく握って、そっと安寿の胸に口づけた。あまりにも安寿の肌が透き通っていて、少しでも手で触れたら傷つけてしまいそうだ。どうしても航志朗はその手で安寿に触れることができなかった。ゆっくりと航志朗は安寿の胸を優しく吸った。

 航志朗も不思議に思った。

 (どうして、俺はこんなにも穏やかな気持ちでいられるんだ)

 安寿は自分の胸に口づけている航志朗の頭を抱いてそっとなでた。航志朗を愛おしく想う気持ちがあふれ出てくる。そして、全身がとろけていくような感触に身体の奥をたゆたわせて思った。

 (いつか、私がママになって赤ちゃんに母乳をあげる時って、こんな感じなのかな)

 そう穏やかに思える自分がとても不思議だ。初めて胸をさらけ出して触れられているのに。身体じゅうの力が抜けてくる。とても気持ちがよくて、もう何も考えられない。それに、なんだか眠くなってきた。

 ゆっくりと安寿は目を閉じた。

 航志朗は目を閉じた安寿を静かに見つめた。安寿の表情までもが柔らかく陽の光に溶けてしまいそうだ。

 だが、急に航志朗はわけのわからない真っ黒な心の揺らぎにさいなまれた。航志朗はこのまま先に進んでいいのかまったくわからない。苦しそうな表情を浮かべて航志朗は安寿の名前を呼んだ。

 「安寿……」

 「はい」

 安寿は目をつむりながら答えた。

 「今、君を抱きたい」

 ゆっくりと安寿は目を開けて航志朗の琥珀色の瞳を見て答えた。

 「……はい」

 突然、身体の奥からわいてきた衝動が航志朗を貫いた。それに突き動かされるように航志朗は安寿にのしかかって荒々しく唇を重ねて、その手で安寿の胸をまさぐった。目をきつく閉じて安寿は航志朗の身体にしがみついた。

 その時、航志朗は誰かが自分の後ろですすり泣いている声を聞いた。女の泣き声だ。思わず航志朗は顔をしかめた。

 安寿の身体に触れている手が止まる。その瞬間、安寿は大きなくしゃみをした。みるみるうちに安寿の素肌に鳥肌が立った。そして、ダイニングテーブルの上に置いてあった航志朗のスマートフォンがけたたましく鳴り出した。航志朗は呼び出し音を無視したが、なかなか鳴りやまない。航志朗は苛立つように起き上がって、いきなり安寿を抱き上げてソファに運び、安寿に毛布を掛けた。スマートフォンを手に取って、航志朗も毛布の中に入った。航志朗は安寿を抱き寄せて、安寿の唇にキスしてから画面をタップした。

 『コーシ! たった今、俺たちの子どもが生まれたんだ!』

 いきなり興奮した大声が聞こえた。ブルーノ・デ・アンジェリスだ。

 航志朗はイタリア語で言った。

 「ブルーノ、おめでとう(コングラトゥラツィオーニ)!」

 航志朗に抱きしめられながら安寿は航志朗の顔を見ると、下を向いてパジャマのボタンを留め始めた。それを航志朗は横目で見て、軽く息を吐き出した。

 『コーシ! 天にも昇るような素晴らしい気分だよ。とうとう俺は父親になったんだ!』

 「性別はどっちなんだ? 名前はもう決めたのか」

 『女の子で、名前はキアーラだ。俺と同じ瞳の色をしている。マユに似て美人だよ』

 「『キアーラ』か。いい名前だ」

 『今、キアーラにさっそくマユは授乳をしているんだ。初乳は大切だからな。コーシ、マユは、聖母(マドンナ)のようだよ。ああ、マユ! なんて君は美しいんだ!』

 濃厚なキスをする音がスマートフォンの向こうで延々と響いた。思わず航志朗は苦笑いしながら安寿の頬にキスした。安寿はくすぐったそうに微笑んだ。

 ブルーノは無邪気に大声で言った。

 『コーシ、おまえたちも早く子どもをつくれよ!』

 航志朗は深いため息をつきながらスマートフォンを下に置いた。

 にこにこしながら安寿が言った。

 「ブルーノさんとマユさんに、赤ちゃんが生まれたんですね」

 「ああ。女の子で、名前は『キアーラ』だ」

 「キアーラちゃん。きれいな音。素敵なお名前ですね」

 「ラテン語で『光り輝く』って意味なんだ」

 「そうなんですか」と言いかけた安寿の唇を航志朗はキスでふさいだ。毛布にくるまったままふたりは唇を重ねたが、まぶたがだんだん重たくなってきた。昨晩まったく眠っていないのだ。やがて、毛布がふたりの体温で温まってくると、安寿と航志朗は抱き合いながら深い眠りに落ちていった。

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