今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 九月に入った。今年の夏も連日猛暑日が続いている。岸家の安寿の自室には真新しいシルバーのスーツケースが置かれている。十日間の予定で北海道の恵に会いに行く安寿のために華鶴が買ってくれたのだ。それは航志朗が使っているスーツケースと同じブランドのものだ。航志朗のスーツケースは使い込まれていて傷だらけだったことを安寿は思い浮かべた。

 「いたっ」

 安寿は左手の親指に縫い針を刺してしまった。安寿の指先に、ぷつっと真っ赤なしずくが浮かんだ。あわててティッシュペーパーで拭く。安寿は恵の赤ちゃんのためにオーガニックコットンでスタイを作っていた。裁縫はまったく得意ではないが、何か手作りのものをプレゼントしたいと思って、この一か月間少しずつ縫い進めてきた。これで三枚目だ。

 だが、安寿はどうしても目の前のことに集中できなかった。その理由は安寿自身わかりきっている。八月中に航志朗が帰国しなかったからだ。ロンドンから連絡があってから、一か月半以上、航志朗からなんの音沙汰もない。
 
 (久しぶりにシンガポールに帰って、きっとアンさんとゆっくり過ごしているんだろうな。私のことなんか、すっかり忘れて)

 安寿は胸が張り裂けそうになったが、明日、やっと恵夫婦と彼らの子どもに会えるのだ。安寿はなんとか気を取り直そうとした。そして、玉止めの結び目をしっかりと固定して最後の仕上げをした。

 七月中旬に十か月ぶりにシンガポールに戻って来た航志朗は、息をつく間もなく多忙な日々を送っていた。アイスランドの次は、ソウルと上海だ。それぞれの地に新設される美術館の仕事が待っていた。依頼主たちは、さっそくアート・マネジメントの博士号を取得した航志朗を新規事業に指名してきた。

 八月最後の土曜日の夜、航志朗は仕事が終わってから、アンと彼の自邸に行った。しばらくシンガポールを離れていた航志朗をねぎらおうとヴァイオレットが招待したのだ。真っ白な大理石のエントランスに入ると、小さな舌を出したペキニーズがよたよたと航志朗に近寄って来た。

 航志朗はペキニーズを軽々と抱き上げて、中国語(マンダリン)で言った。

 「天使(ティエンシー)、久しぶりだな。元気だったか?」

 ティエンシーは相変わらずのまん丸い瞳で航志朗をじっと見た。

 「コーシ、おかえりなさい!」

 奥からヴァイオレットが小走りでやって来て、ペキニーズごと航志朗をハグした。

 「ただいま、アンジュ。……じゃなくて、ヴィー」

 航志朗は額に手を置いて言った。

 「ごめん、ヴィー。俺、疲れているな」

 ヴァイオレットは哀れみを帯びた表情で言った。

 「あーあ。コーシったら、かわいそうに。トーキョーであなたを待ってるアンジュは、もっとかわいそうだけど」

 広いリビングルームにあるダイニングテーブルの上には、デリバリーのピザがたくさん並べてあった。ヴァイオレットは一度も料理をしたことがない。三年前に建てられた自宅のキッチンもいまだに新品のままだ。

 「ほら、コーシの大好きなピザをたくさん用意したわよ。いっぱい食べて、元気出してね!」
 
 「ありがとう、ヴィー」

 大量のピザを三人で平らげてから、アンはシャワーを浴びにバスルームに行った。航志朗はテーブルの後片づけをし始めたヴァイオレットを手伝おうと腰を浮かした。

 「コーシ。いいわよ、疲れているんだから。座ってて……」と言いかけたヴァイオレットが、いきなり口を押さえてしゃがみこんだ。

 あわてて航志朗はヴァイオレットの背中を支えて言った。

 「ヴィー、大丈夫か」

 少し頬を赤らめて、ヴァイオレットはミネラルウォーターをグラスに注いで飲んだ。

 「ヴィー、君、もしかして……」

 ヴァイオレットは航志朗の琥珀色の瞳を見てうなずいた。

 「そうか……。おめでとう」

 ゆっくりとヴァイオレットは航志朗の肩に額をつけて言った。

 「私、まだアンに伝えてないの。ドクターのところにも行ってないし」

 無言で航志朗はヴァイオレットの髪をなでた。

 「コーシ、怖いのよ、とっても。私、いいお母さんになれるかな……」

 航志朗は優しく微笑んで言った。

 「ヴィー、君は必ずいいお母さんになれるよ。俺が保証する。だって、君は俺の命を助けてくれたんだからね」

 ヴァイオレットは涙ぐみながら、航志朗に微笑んだ。

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