今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 美術館の館長がオルガの様子に気づいて近寄って来た。館長は膝をついてオルガの背中を支えて尋ねた。

 「お客さま、ご気分がよろしくないのでしょうか? どうぞ、こちらへ」

 館長はオルガを支えてオフィスまで連れて行った。ゆったりとしたソファに座るとスタッフがミネラルウォーターをグラスに注いで運んで来た。

 「ありがとうございます。もう大丈夫です。ご迷惑おかけして、申しわけありません」

 「必要でしたら、ドクターを呼びますが」

 「いいえ、けっこうです。お手数ですが、タクシーを手配していただけますでしょうか」

 「かしこまりました」

 館長はスタッフに指示した。

 オルガは目を伏せて館長に謝った。

 「本当に申しわけありません」

 館長は苦笑いして言った。

 「いえ、オープンから三か月近くになりますが、よくあることなのです。お客さまが、あのエントランスのドームの下でなんらかのご心情の変化を体験されることが。私自身、たいへん驚いているのですが」

 「どういうことですか?」

 「突然、お客さまが身を震わせるほどの歓喜にあふれたり、酔ったように楽しく愉快な気分になられたり、もしくは、昔の思い出にさいなまれたりするのです」

 思わずオルガはうつむいた。

 タクシーがやって来た。館長が行き先を尋ねると、オルガはケプラヴィーク空港までと答えた。礼を言ったオルガは館長に最後の質問をした。

 「あの牛の絵を描いたアーティストのお名前を教えてください」

 館長は静かに微笑んで言った。

 「その名前は明かせませんが、私の友人です」

 また礼を述べてからオルガはタクシーに乗り美術館を去って行った。

 館長はタクシーが見えなくなるまで見送ってから、急に仏頂面になってつぶやいた。

 「コウシロウ、やっぱりアンジュは君の妻にしておくには、まったくもって『モッタイナイ』な」

 オルガはロンドン行きの最終便に乗った。機内は空いていた。明日の午後にはワルシャワへ公演ツアーに行っている夫が帰国する。

 オルガは真っ暗な小窓の外を見て思った。

 (私は愛してほしいひとたちに愛されなかったけれど、この子だけは心から一生愛すると天に誓うわ)

 オルガは自分の下腹を優しくなでた。昨日、ホテルで妊娠検査薬を使った。結果はポジティブだった。彼とつかの間の再会をした日の夜にオルガが自ら夫に求めて身ごもった。

 オルガは小窓の外を眺めた。美術館で見た牛たちが夜の星空を駆けぬけているような気がした。その星のきらめきは美しい音楽になってオルガを包んだ。そして、オルガは思い知った。

 (そう、まだ私は自分にうそをついている。本当は、私は彼を愛していなかった。私が愛したのは、あの曲だけ。幼い頃、ママが弾いていたあの曲だけ……)

 オルガは小窓に両手をかけて人知れず涙を流れるままにした。小さな小さな新しい命をその身体のなかにしっかりと抱きながら。














 












 


















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