今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その日の午後には安寿も航志朗も平熱に戻った。夕食に恵と希世子がつくってくれたジャガイモがたくさん入ったシチューをふたりはおいしそうに平らげた。

 次の日、安寿と航志朗は遅い時間に起きて白樺の並木道に散歩に出かけた。草むらの上で白樺に寄りかかって一緒に座り、秋めいていく空と大地を何も考えずに眺めていた。

 航志朗は安寿の手を握った。安寿も航志朗の手を握り返した。今のふたりは手を握り合っているだけで、心から満たされていた。

 その夜、離れの部屋では風呂に入った航志朗が布団の上で仰向けになって天井を見上げていた。今しがた安寿は風呂に入りに行ったばかりだ。そこへ音もなく恵がやって来て航志朗に声をかけた。

 「航志朗さん、ちょっといい?」

 起き上がって航志朗はうなずいた。

 しばらくうつむいて沈黙してから、恵は少し言いづらそうに話し出した。

 「航志朗さん、あなたに話しておきたいことがあるの。安寿の母親のことよ。安寿から何か聞いてる?」

 「はい。少しだけは」

 気まずそうに航志朗は下を向いた。

 「そう。あのね、安寿の母親の愛ちゃん、本当は、……自殺、だったかもしれないの」

 驚いて航志朗は恵の顔を見た。

 「安寿からは、事故でお亡くなりになったと聞きましたが」

 「確かにそれは事実よ。でもね……」

 それから恵はずっと一人で心の奥に抱え込んできたことを航志朗に打ち明けた。

 「愛ちゃんが亡くなった後、不可解なことがいくつもあったの。私がね、愛ちゃんの葬儀に安寿に着せる服を、愛ちゃんと安寿の部屋のクローゼットを開けて探したら、今まで見たことがない黒いベルベッドの新品のワンピースがタグが付いたままでハンガーに掛かっていて、それを安寿に着せたらサイズがぴったりだったこととか……。その前の年の夏に、安寿が気に入って毎日おやつに食べていた牛の形をした最中にミルクアイスが入っているアイスクリームが、真冬だというのにいつの間にか大量に冷凍庫に入っていたこととか」

 「……牛の形のアイスクリームですか」

 航志朗は安寿の気持ちを想うと胸が痛くて仕方がなくなった。

 「それからまだあるのよ。そのクローゼットの奥に木製のジュエリーボックスが置いてあったの。その中には、私たちの両親が愛ちゃんの誕生日や成人式の時にプレゼントしたジュエリーや、愛ちゃんが自分で買ったアクセサリーの他に、とても高価そうなブローチが入っていたの。たぶん本物の大きなダイヤモンドが三つもあしらわれたものよ。裏にはイニシャルが彫ってあった。「M & A」って。「A」は、愛ちゃんの「A」。「M」は、たぶん、愛ちゃんの恋人の名前のイニシャルね」

 航志朗は思わず大声で言った。

「安寿の父親ってことですか!」

 険しい表情で恵はうなずいた。

 「そして、そのジュエリーボックスには、走り書きのメモと通帳と印鑑も入っていた。そのメモには、『安寿が二十歳になったら、渡してください』って」

 恵は抑えきれずに涙を流した。正座をした航志朗はこぶしを握りしめて下を向いた。

 震える声で恵は続けた。

 「そしてね、その通帳には驚くほどの大金が入金されていたの。五千万円よ。今でも信じられない」

 航志朗は遠慮がちに言った。

 「もしかして、……安寿の父親から」

 「慰謝料とか、養育費? それもわからないの。だって、安寿が生まれるずっと前に現金で入金されていたから」

 「恵さん。安寿の父親が誰なのか、何か手がかりはないんですか?」

 「私、両親には止められたんだけど、必死になって調べたのよ、航志朗さん。愛ちゃんの大学の友だちに会ったりして。でも、結局わからなかった。ただひとつだけ気になったのが、愛ちゃんが亡くなったことを知って泣いてくれたお友だちが言っていたの。一度だけ、大学の近くに停まっていた黒塗りの高級車に愛ちゃんが乗り込むのを見たことがあるって」

 恵は寒気を感じたかのように腕を組んで縮こまった。

 「安寿が生まれた時、愛ちゃんは本当に心から喜んでいたのよ。母親になってものすごく張りきって、慣れない育児もとてもがんばっていた。でも、だんだん心のバランスを崩していったの。大雪が降っていたあの真冬の日の早朝に、ひとりで愛ちゃんはどこかに出かけて行った。家族の誰にも何も言わずに。両親と私は手分けして愛ちゃんを探したわ。でも……」

 思わず航志朗は恵の手を握りしめた。恵は航志朗を見て、涙目のままで微笑んだ。

 「航志朗さん、安寿をよろしくお願いします。私、あの子があなたを見て仏頂面をしたり笑ったりするのを見て、本当に心から嬉しいのよ。だって、あの子、ずっと自分の感情を押し殺して、いろいろなことを我慢してきたから」

 航志朗の手を握り返して、恵は深々と頭を下げた。

 「恵さん、安心して私にお任せください。以前にも申しあげましたが、私は全身全霊をかけて、一生、安寿を守りますので」

 恵は航志朗の透き通った琥珀色の瞳を見つめてうなずいた。

 その時、スリッパがぱたぱたと廊下を叩く音がしてきた。あわてて恵は両目をこすった。

 「あれ、恵ちゃん、いたの?」

 開いた襖の向こうから安寿が気づいて言った。

 いきなり声を張りあげて、恵が航志朗に大げさに言った。

 「航志朗さん、何か食べたいものない? 私、腕によりをかけて、あなたのために何でもつくるわよ!」

 航志朗もおどけたように大声で言った。

 「俺は、恵さんがつくったカレーが食べたいです!」

 「カレー? そんなものでいいの? 航志朗さんったら、小学生の男の子みたいね!」

 恵と航志朗は楽しそうに笑い合った。安寿は不思議そうにふたりを見て思った。

 (恵ちゃんと航志朗さんって、いつの間にこんなに仲良くなっちゃったの……)

 それから、安寿と航志朗は布団に横になった。二組の布団をぴったりとつけて、ふたりは手をつないだ。安寿は、航志朗の手がひんやりと冷たいことに心から安堵した。

 「安寿」

 「はい」

 「これから必ず一か月に一回は君に会いに帰って来る。直近一年の俺の仕事の取引先はソウルと上海なんだ。どちらも東京にとても近い。ソウルなんて片道二時間半だ。通勤できるくらい近いだろ?」

 「通勤……」

 「そう。会うだけじゃなくて、君と一緒に暮らせる」

 一瞬、安寿は喜びを感じた。だが、すぐに安寿は胸がふさいだ。

 (それはない。だって、彼はシンガポールに帰るから)

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