今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第8節

 北海道から帰る日がやって来た。もうすぐ安寿と航志朗はまた離れ離れになる。

 航志朗は今日の午後にソウルでのアポイントメントが入っている。航志朗が搭乗する韓国・仁川(インチョン)国際空港行きの飛行機は、新千歳空港を午前十時に出発する。

 帯広駅から南千歳駅まで安寿と航志朗は一緒に特急に乗って行く。南千歳駅でふたりは別れる。特急の始発は帯広駅を午前六時四十五分に発車する。ふたりは帰途も帯広駅まで渡辺に車で送ってもらうことになった。

 安寿も航志朗も昨晩はよく眠れなかった。一組の布団の中で抱き合ったまま、ふたりはじっとしていた。ただ互いの身体の匂いと温もりとその胸の鼓動を感じていた。

 安寿と航志朗はまだ日の出前の午前四時半に起きると、布団をたたんで身支度をした。そして、スーツケースを玄関に運び、台所に向かった。早朝だというのに、台所では白い割烹着を着た希世子がもう起きていておにぎりを握っていた。

 「おはようございます、希世子さん」

 「おはよう、安寿ちゃんと航志朗さん。はい、おふたりとも朝ごはんよ。温かいうちにどうぞ」

 「朝早くからありがとうございます、希世子さん」

 安寿と航志朗は一緒におにぎりを食べた。安寿はそれをよく噛んで味わいながら思った。
 
 (この希世子さんのおにぎりの味も、きっと私にとって懐かしい味になる)

 眠そうな顔をして渡辺も台所にやって来た。立ったままでおにぎりを口にしながら渡辺が言った。

 「今、恵ちゃん、授乳中なんだ。おむつ交換してから敬仁と一緒に帯広駅に見送りに行くって」

 「こんなに朝早くから大変だな、恵さん」と航志朗がほうじ茶を啜りながら安寿に言った。

 「恵ちゃん、夜も二時間おきに起きて授乳をしているって言っていました」

 航志朗が大きく目を見開いて言った。

 「本当か! いつ眠っているんだ、恵さんは」

 渡辺がしみじみとつぶやいた。

 「母親は偉大だよ。僕なんて敬仁が夜中に泣いてもまったく気づかないんだから」

 にっこりと微笑んだ希世子が安寿に向かって言った。

 「安寿ちゃん、航志朗さんなら夜も育児をちゃんと手伝ってくれるから大丈夫よ。ねぇ、航志朗さん?」

 顔を赤らめながら航志朗が安寿にうなずいた。いかにも恥ずかしそうに安寿が下を向いたので、渡辺と希世子は目を細めて微笑み合った。

 そこへ敬仁を抱いた恵が「優ちゃーん!」と大声を張りあげてやって来た。渡辺がおにぎりをほおばりながらのんびりと尋ねた。

 「恵ちゃん、朝っぱらからどうしたの?」

 「敬仁、さっき、いきなり首がすわったみたい!」

 渡辺が首をかしげた。

 「んー? いきなりって、恵ちゃん、どういうこと」

 「あのね、おっぱい飲み終わったら、いきなり敬仁がきゅるきゅるって首を回したの! ねじをしめるみたいに」

 「何それ?」

 渡辺はあぜんとした。

 割烹着の裾で手を拭いてから、希世子が敬仁を抱き上げた。

 「どれどれ……、あら、ほんと! 首がすわっているわ」

 安寿と航志朗は顔を見合わせて微笑んだ。

 その時だった。玄関から「おはようございまーす」と呼ぶ声がした。渡辺がおにぎりをほおばりながら言った。

 「あれ? 土師くんだ。どうしたんだ、こんなに朝早くから」

 はっと目を見開いた安寿はすぐに立ち上がって、走って玄関に向かった。航志朗がにやっと笑ってその背中を見送った。

 「おはようございます、土師さん!」

 急いで玄関ドアを開けた安寿は、土師がそこに一人で立っているのを見た。思わず安寿は両肩を落としてうつむいた。

 (やっぱり、私の絵は土師さんのお役に立てなかったんだ)

 そこへ焼きたてのパンの香りが安寿の鼻をくすぐった。

 (なんていい香り。でも、どうして?)

 安寿は不思議に思って顔を上げた。

 その時、控えめな声が聞こえた。

 「……安寿さん、ですね?」

 「えっ?」

 土師の後ろから小柄な女が姿を現した。化粧をしていない素顔のままで口が開いた大きな紙袋を二つ抱えている。しとやかな雰囲気の女は伏し目がちに顔を真っ赤にさせながら言った。

 「私、穂乃花と申します。昨日、土師の妻になりました。どうぞよろしくお願いいたします」

 穂乃花は深々と安寿にお辞儀をした。

 微笑みながら航志朗が安寿の後ろにやって来て、安寿の肩に手を置いた。

 「そうですか! ご結婚おめでとうございます、土師さんと穂乃花さん!」

 両手を合わせて安寿は目を潤ませた。

 昨日の午後、渡辺の家から土師が自宅に戻ってくると、穂乃花が土師のアパートの前に立っていた。穂乃花は安寿の絵が入った封筒を大事そうに抱えていた。土師は何も言わずに穂乃花の手を握ると、穂乃花を白樺の並木道に連れて行った。しばらくの間、ふたりは絵に描かれた風景を眺めていた。やがて、土師が穂乃花に勢いよく申し出た。

 「穂乃花、結婚しよう! そして、ここで一緒に暮らそう!」

 微笑みを浮かべて穂乃花はうなずいた。そして、またたく間に表情を崩した穂乃花の両頬に涙が伝った。白樺の樹々の下でふたりはしっかりと抱き合った。

 穂乃花は安寿に紙袋を手渡しながら言った。

 「私、大学を卒業してから、ずっと東京のホテルのベーカリー部門でパンを焼いているんです。あの、私、安寿さんにお礼がしたくてパンを焼きました。私はパンを焼くことしか取り柄がなくて。よかったら召しあがってくださいね」

 穂乃花は恥ずかしそうに小さく笑った。

 突然の贈り物に安寿が戸惑っていると、横から航志朗が遠慮なく受け取って、紙袋の中をのぞき込んで言った。

 「穂乃花さん、ありがとうございます。おおっ、おいしそうだな! さっそくいただきます」

 航志朗はパンを取り出して、口にぱくっと入れた。それはシナモンロールだった。

 「うん。とてもおいしいです。以前、ヘルシンキのカフェで食べたシナモンロールの味を思い出します」

 「ええっ?」

 穂乃花がぱっちりとした大きな目をさらに大きくして驚いた。

 「ヘルシンキで召しあがられたことがあるんですか! 私、おととし勤務先のホテルから派遣されて、一年間フランスとフィンランドでパンの修行をしたんですよ」

 満足そうに航志朗は微笑んで言った。

 「偶然にも私の妻はシナモンロールが大好物なんですよ。ほら、安寿もいただいたら」

 安寿の口に航志朗はシナモンロールを運んだ。安寿は頬を赤らめながら食べて言った。

 「おいしい! 焼きたてのシナモンロール初めてです。とても嬉しいです。ありがとうございます、穂乃花さん」

 穂乃花は笑顔で土師を見上げた。幸せそうに微笑みながら土師も穂乃花を見返した。後からやって来た渡辺と恵と希世子も互いに微笑み合い、土師と穂乃花を心から祝福した。

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