今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 眼下に地中海を見下ろす白いテラスで、航志朗とデュボアは乾杯を交わした。ワイングラスの中身はもちろんブドウの濃厚なオーガニックジュースだ。潮風が白いフレンチリネンの厚地のテーブルクロスを軽快な音を立ててひるがえす。珍しい野菜を使った色彩豊かなヴィーガンフレンチのフルコースがふるまわれた。

 食事中、静かにデュボアは料理を口に運ぶ。航志朗もそれに倣う。胸の内で航志朗は思った。

 (安寿が握ったおにぎりのほうが、ずっと、ずっと、おいしいよ)

 食後にハーブティーを飲みながら、ふと思いついたようにデュボアが尋ねた。

 「コウシロウ、結婚生活というものはどんなものなのかな? 私は一度も結婚をしたことがないから、まったく想像ができなくてね」

 苦笑いしながら航志朗は横に控えているノアを見て言った。

 「お近くにいらっしゃる息子さんに、お尋ねすればよろしいのではないでしょうか」

 その言葉を耳にして、ノアは困ったように微笑んだ。

 デュボアはノアを見上げて言った。

 「ノアもホアも私の子どもたちだ。彼らは幼い頃からずっと一緒にここで暮らしているから答えようがないだろう」

 口元をゆるませながらノアがうなずいた。

 「ムッシュ・デュボア。もうすぐ、おじいさま(グラン・ペール)になられますね。さぞかし楽しみでしょう」

 あえて航志朗は話題をそらそうとした。

 「そうだね。赤ん坊(べべ)をこの手に抱くのが楽しみだよ。で、どうなんだ、コウシロウ?」

 思わず降参した航志朗は両肩を上げた。

 「実は、今のところ、私たちは一緒に暮らしていないんです。彼女はトーキョーで美術大学に通っていて、私はシンガポールを拠点にして世界中を飛び回っていますので」

 一瞬、目を光らせてデュボアが言った。

 「ほう、それは興味深いね。そうか、彼女は大学生なんだね、そして、絵を学んでいる」

 口を滑らせたことを自覚して、航志朗はひどく後悔した。
 
 「彼女が描いた絵をこの目で見てみたいものだな」

 嫌な汗が背中を流れたことを航志朗は感じた。詮索するようにデュボアは目を向けてきたが、航志朗はデュボアの目を力を込めて見返した。ここで怖気づくわけにはいかない。

 そして、デュボアは不可思議な微笑を航志朗に投げかけてから言った。

 「さて、君との時間も残り少なくなってきた。最後に、この鍵を君に渡そう。この後は君の選択に任せる」

 デュボアは首から下げたチェーンネックレスをドレスシャツの中から引き出して外し、航志朗の目の前に置いた。ネックレスに通された真鍮の鍵が鈍く光った。

 まったくわけがわからずに航志朗はデュボアに尋ねた。

 「ムッシュ・デュボア、どういうことでしょうか……」

 「私の一生涯で最高の絵画コレクション、二十年前のムネツグ・キシの作品『永遠の恋人(マ・シェリ・エテルネル)』がいる部屋の鍵だよ」

 「『永遠の恋人』……」

 航志朗の頭のなかに真っ黒な不安の(もや)りが広がり出した。

 「もし君が望めば、今、ここで、彼女に会える」

 「彼女……」

 どうしても浮かんでくる暗黒の思考が航志朗の脳裏を濁らせていく。

 (まさか、二十年前の画家()の恋人ということか。いや、愛人か……)

 「そう。彼女はあの部屋にいるよ」

 デュボアは最上階の角部屋を指さした。

 航志朗の目の前でデュボアは白いナプキンで上品に口を拭いた。

 「ごちそうさま。さて、私は昼寝の時間だ。……おやすみ、コウシロウ」

 その時、柔らかな温かいまなざしでデュボアが航志朗を見つめた。一瞬、航志朗は懐かしい気持ちに包まれて、祖母の面影を脳裏に思い浮かべた。航志朗はごく自然に口角を上げて、かつて祖母に対してしたように微笑みを浮かべて言った。

 「おやすみなさい、ムッシュ・デュボア」

 ノアに支えられながらデュボアはテラスから邸宅に入って行った。一人残された航志朗はデュボアが指し示した部屋を見上げた。固く閉じられた窓からは何もうかがうことができない。スマートフォンを見ると午後二時だ。航志朗はしばらく目の前の白いテーブルクロスに影を落とした真鍮の鍵を見据えていた。先程からずっと胸の奥底が震えているのは充分に認識している。

 (俺は怖がっている、真実を知ることを。でも、今、俺は「彼女」に会いに行かなければならない。……前に進むために)

 空を見上げて航志朗は意を決した。

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