今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 大きな森に抱かれた神社に到着した。先に車から降りた航志朗は助手席のドアを開けて、車からゆっくりと降りる安寿の手を取った。自然に安寿は航志朗の左腕につかまった。航志朗はたまらない気持ちになって胸を熱くさせた。

 境内に向かう玉砂利の上をゆっくりと歩いていると、すれ違う人びとに注目されていることに航志朗は気づいた。だが、それに安寿はまったく気づいていない。

 突然、航志朗は一眼レフカメラを持った外国人観光客に英語で声をかけられた。

 「すいませんが、キモノを着たあなたの美しい彼女を写真に撮らせていただけないでしょうか?」

 丁重に航志朗は断った。

 「申しわけありませんが、それはできません」

 急に恥ずかしくなった安寿は航志朗の左腕に顔を押しつけて隠れるようにして、航志朗にしがみついた。そして、小声で訴えた。

 「航志朗さん。私、恥ずかしい。やっぱり、季節はずれの振袖姿なんて目立ってしまいます」

 「いいじゃないか。とても君はきれいなんだから」

 また同じことを言って航志朗は目を細めると、かがんで安寿の耳元にささやいた。

 「安寿、俺はとんでもなく幸せ者だよな。マンションに帰ったら、君のその振袖を脱がせることができるんだから」

 その生なましい言葉を聞いた安寿はマンションに帰った後のことを想像して、振袖よりも顔を真っ赤にさせて下を向いた。

 あわてふためきながら安寿が言った。

 「私がきれいなんじゃなくて、この振袖が美しいんですよ。もちろん、航志朗さんはご存じですよね。この振袖は、黒川家の航志朗さんのおばあさまが、華鶴さんの二十歳のお祝いに仕立てられたものだということを」

 一瞬、航志朗は険しい表情を浮かべた。

 「そうなのか。それは知らなかった」

 改めて航志朗は赤紅色の振袖姿の安寿を見つめた。

 「それから……」と安寿が言いかけると、航志朗がさえぎるように言った。

 「君のその左手の薬指の翡翠の指輪は、恵真おばあさまのものだ、だろ?」

 にっこりと微笑んで安寿はうなずいた。

 「久しぶりに見たけれど覚えているよ。恵真おばあさまの成人のお祝いに曾祖父が贈ったんだ」

 「そうなんですか。それは知らなかったです。アトリエで外してくるのを忘れてしまいました。なくさないように気をつけないと」

 「そういえば、安寿、結婚指輪はどうしたんだ?」

 安寿は胸に左手を置いて言った。

 「ここですよ」

 「ここ?」

 「はい。長襦袢の下につけたローマングラスのペンダントのチェーンにくぐらせてあるんです」

 「そうか。ずっと身につけていてくれて嬉しいよ」

 うつむきながら安寿が微笑んだ。

 神社の拝殿の前に着くと、航志朗は安寿をうながしてその隣の参集殿に入った。中は待合スペースになっていて、椅子に座った数組の参拝者たちが祈祷の順番を待っていた。礼装を着こなした参拝者が多い。だんだん緊張してきた安寿が航志朗の隣に座ると、大泣きする赤ちゃんの声が聞こえてきた。とっさに安寿と航志朗は泣き声がする方向を見た。白羽二重(しろはぶたえ)を着て祝い着を羽織った赤ちゃんが、両親と祖父母に囲まれて元気に泣いている。安寿と航志朗は自然に微笑み合ったが、急に安寿は頬を赤らめて視線を外した。わかりやすい反応をした安寿を見つめながら航志朗はひそかに思った。

 (今度、ここに参拝に来る時は、たぶん三人になっているんだな……)

 しばらく待ってから、ふたりの順番が来た。

 「岸航志朗さま、岸安寿さま。どうぞ、本殿にご案内いたします」

 二人の巫女に案内されて、安寿と航志朗は本殿に上がった。安寿は航志朗の大きな背中を見つめながら、本殿への長い回廊を歩いた。

 (今、航志朗さんのそばにいられて、本当に嬉しい。ずっと私は彼に守られているんだ)

 泣き出しそうになるのを安寿はあわてて我慢した。

 神職による祈祷の言葉が唱えられはじめた。はじめに「祓詞(はらえことば)」が粛々と語られ、続いて「祝詞(のりと)」が奏上される。そして、先程の二人の巫女が神楽を奉奏した。ふたりは神前で手を合わせて拝礼した。

 安寿は目を閉じて祈った。

 (神さま、ママ、おじいちゃんとおばあちゃん。無事に安寿は二十歳になりました。いつも見守ってくださって、ありがとうございます。それから、今、ここで、航志朗さんの隣にいられることに、心から感謝します)

 御神符を受け取って回廊を歩いていると、黒紋付と白無垢の新郎新婦とすれ違った。互いに会釈しつつ航志朗はふと気がついた。

 (そういえば、俺たちは結婚式をしていないんだな。安寿の花嫁姿、……見たいな)

 航志朗は振り返って安寿を見つめた。安寿は航志朗を見上げて微笑んだ。航志朗は胸を高鳴らせた。

 拝殿の前に戻ると、安寿がほっとしたように肩を落として言った。

 「航志朗さん、もう帰りましょう。そろそろ帯が苦しくなってきました」

 航志朗は安寿を見つめた。その琥珀色の瞳は熱を帯びている。思わず安寿は胸をどきっとさせた。航志朗はからかうように軽い口調で安寿に言った。

 「ふーん、早く脱ぎたいんだ。安寿、その振袖を脱いだら何をしようか?」

 仏頂面をして安寿は抗議した。

 「もう、航志朗さんたら。神社の境内で不謹慎ですよ」

 悪びれもせずに航志朗はにやにや笑った。

 また参拝客たちの視線を感じて、安寿は赤くなって下を向いて言った。

 「あの、航志朗さん。私……」

 「ん?」

 「……なんでもないです」

 その時、本当の気持ちを安寿は口に出せなかった。

 (振袖を脱いだら、私、あなたに抱きしめてほしい。ずっと、ずっと……)








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