今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗の乗った車がマンションに到着した。リビングルームに入ると、安寿はおもむろに振袖の帯をほどき始めた。ソファに座った航志朗は安寿を黙って見つめていたが、難儀そうに腰に手を回した安寿を見かねて手伝った。航志朗が複雑に結ばれた帯を器用にほどいていくと、やっと安寿は振袖を脱いだ。ほっとため息をついて、安寿は白い長襦袢のままで振袖を丁寧にハンガーに掛けた。

 安寿にミネラルウォーターを注いだグラスを手渡すと、航志朗は何かを決意した表情で二階に行った。すぐに戻って来た航志朗は一度深呼吸をしてから、疲れた様子でソファに座った安寿に木製のジュエリーボックスを差し出した。急に目を大きく見開いた安寿は、何も言えずに航志朗を見つめた。

 落ち着いた声で航志朗が言った。

 「昨年の夏に恵さんから預かっていたんだ。『安寿の二十歳の誕生日に渡してほしい』って、恵さんに頼まれた」

 ジュエリーボックスを膝の上にのせて手を触れた安寿の目には、見る見るうちに涙がたまっていった。たまらずに航志朗は安寿を後ろから抱きしめた。あらかじめ安寿の反応を予想してはいたものの、航志朗は胸がきしんで痛くなった。航志朗は安寿に回した腕の力を強めた。やがて、航志朗のシャツの袖に安寿の涙が次々にこぼれ落ちて染み込んだ。

 安寿はジュエリーボックスをそっと手でなでた。

 「覚えてる。これ、ママが大切にしていたジュエリーボックスです」

 航志朗はうなずいてから、安寿の肩に顎をのせた。

 微かに震える手で安寿はジュエリーボックスのふたを開けた。中には確かに見覚えのある品々が収められていた。遠い記憶の中に、このジュエリーやアクセサリーを身につけていた母の姿が少しずつ浮かんでくる。安寿はひとつひとつ手に取って目に入れた。最後に銀色のブローチを左の手のひらにのせた。安寿をずっと見守っていた航志朗は思わず身体を硬くした。安寿はブローチをつまんで午後の穏やかな陽ざしに当てた。ブローチにあしらわれた三つのダイヤモンドのような貴石がきらきらとまぶしく輝いた。

 「これ、いちばんママが大切にしていたブローチです。昔、ママが大好きだったひとにプレゼントしてもらったって、よく嬉しそうに話していました」

 安寿は明るい口調でそう言ったが、航志朗の耳には一字一句胸に突き刺さるように痛々しく聞こえた。

 安寿は振り返って、案の定、涙目で航志朗に微笑んだ。

 「私、当時は何もわからなかった。今思えば、そのママが言っていたひとって、私のお父さんなのかもしれない」

 安寿が目を細めると、また大粒の涙がこぼれた。

 航志朗は安寿に気づかれないように深いため息をついた。

 安寿はブローチの裏側を人さし指でなぞった。

 「この『M&A』って、もしかしたら……」

 航志朗はごく控えめに言った。

 「君のお母さんとお父さんのイニシャルかもしれないな」

 しばらく安寿は沈黙して何かを考えているようだった。航志朗の胸の鼓動がいやがおうにも早まった。

 ふと安寿がつぶやいた。

 「あれ?」

 「ん? どうした」

 航志朗は首を傾けて安寿の顔を見つめた。安寿はブローチをつまんで軽く振った。からからと音がする。なにげなく安寿はブローチを両手で握って、前後のつなぎ目を回した。手ごたえがある。もっと力を込めて回すと、ブローチが二つに外れた。その中から真鍮の小さな鍵が出てきた。安寿はその鍵を手に取って不思議そうに言った。

 「可愛い鍵。でも、なんの鍵なんでしょうね」

 安寿は航志朗の手のひらに小さな鍵をのせた。

 航志朗はその鍵が持つ鈍い輝きに何かが思い当たったような感じがした。だが、航志朗は目の前で泣いている安寿のことで頭がいっぱいで、それ以上、詮索できなかった。

 ジュエリーボックスには、通帳と印鑑は入っていなかった。それから、愛が書き残した走り書きも。どうしても安寿が契約通りに自分から離れていってしまうのではないかという危惧が払拭できずに、航志朗は恵に懇願していた。「これは、安寿が大学を卒業するまで、まだ恵さんが預かっていてください」と。理由を聞かずに恵は了承した。だが、航志朗はじゅうぶん過ぎるほど頭のなかでわかっていた。

 (先延ばしをしただけだ。安寿の出生の真相は、いずれ明らかになるだろう。その時、いったい俺たちはどうなってしまうんだ……)

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