今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 次の日の早朝にダークネイビーのパンツスーツを着た安寿は鎌倉の黒川家に向かった。スーツは大学に入学する前に三枝洋服店で華鶴に仕立ててもらったものだ。セットアップの膝下丈のタイトスカートもあるが、もちろんスラックスの方を穿いた。黒川邸の住所がわからないが、スマートフォンの地図を頼りに近隣までバスに乗って山奥で降りた。竹林に囲まれた道を奥へと進む。辺りは静まり返っていて、人けがまったくない。やがて、黒川家の屋敷の門が見えてきた。急に安寿のなかに重苦しい緊張が走った。安寿は両方のこぶしを固く握りしめた。

 (しっかりしなくちゃ。航志朗さんの大切な命がかかっているんだから)

 戸惑いつつも豪奢な門構えの横にある小さな木戸を押すと、あっけなく開いて中に入ることができた。これだけ大きな邸宅だ。何人もの使用人が雇われているはずだ。安寿は門を背にしばらく誰かが出て来るのを待った。しかし、いつになっても誰の姿も見えず、人の気配すらない。安寿は玄関の引き戸に手をかけた。鍵がかかっていない引き戸はすっと簡単に開いた。黒光りする御影石が敷かれた広い玄関ホールに入ると、安寿は暗い屋敷の奥に向かって大声で言った。

 「失礼いたします、岸安寿です!」

 なんの返事もない。途方に暮れて安寿はため息をついた。下を見ると頼りなさげな自分の姿が御影石に映っていた。

 そこへいきなり黒川が現れた。安寿は思わずびくっと後ずさった。今日の黒川は着物を着ていない。ごく普通の白いシャツの袖を肘の下まで折って、ベージュのコットンパンツを穿いている。高価なブランド物ではないが、品のある仕立てのよい服を着ているのがひと目でわかる。初めて見る黒川のカジュアルな姿だ。上背があるすらりとした黒川の姿に、安寿は思わず航志朗の姿を思い浮かべてしまった。

 「いらっしゃい、安寿さん。ずいぶんと早いお越しで」

 「黒川先生。お忙しいところを申しわけございません」

 「こんなところまで、よく一人で来られたね。連絡してくれれば、鎌倉駅まで迎えに行ったのに」

 安寿は下を向いて内心で思った。

 (私、黒川先生の連絡先を知らないんだもの。別に知りたいとも思わないけど)

 「安寿さん、どうぞ上がって。お茶を淹れるよ」

 きちんと靴をそろえてから、安寿は黒川の後をついて行った。とてつもなく広々とした邸宅だ。子どもがかくれんぼをしたら一日中見つからずに隠れていられそうだ。

 大きな庭に面した洋風のサロンに案内された。黒川に勧められて安寿は一人掛けのソファに座った。安寿はサロンを見回した。応接セットの他には特に何も置かれていない。言いようによっては、殺風景な空き家のような空間だ。安寿は窓の外のよく手入れされた日本庭園を眺めた。

 (大変失礼だけど、見た目は立派なお屋敷なのに、中身は空っぽ……)

 黒川がシルバートレイをたずさえて戻って来た。湯気が立つ二客のコーヒーカップが目に入る。シュガーポットとミルクピッチャーは見当たらない。黒川は安寿の斜め前に座ると、コーヒーをおいしそうにすすった。安寿は手をつけない。くすっと笑って黒川が言った。

 「安寿さんもどうぞご遠慮なく。別に睡眠薬とか毒とか入れてないからさ」

 苦笑いしてから、安寿は仕方なくコーヒーカップを口につけた。ものすごく苦い。安寿は思いきり顔をしかめた。

 「あれ? 安寿さん、君ってコーヒーが苦手なの」

 何も答えずに安寿は無理やりまた真っ黒な液体を喉の奥に流し込んだ。黒川は肩を上げてくすっと笑った。
 
 「そんなに無理して飲まなくていいよ。紅茶でも淹れ直してこようか、安寿さん」

 コーヒーカップをソーサーの上に置いて、黒川は腰を浮かした。

 すぐに安寿もコーヒーカップを無作法な音を立てて置くと、突然、黒川を見すえて切り出した。

 「あの、黒川先生!」

 すぐに黒川が口を挟んだ。

 「ねえ、安寿さん。ここで『黒川先生』はないだろう。名前で呼んでくれないかな」

 安寿は仕方なく言い直した。

 「あの、黒川さん(・・)

 肩を数回震わせて黒川は可笑しそうに口元をゆるませた。今日の黒川はどことなく陽気で明るく、大学で見かける冷ややかで高圧的な態度とはまったく違うことに、安寿はずっと戸惑っていた。

 「さて、本題に入ろうか。とはいっても君が僕に訊きたいことって、航志朗くんのことだろう?」

 こくりと安寿はうなずいて黒川に尋ねた。
 
 「はい。率直に申しあげます。昨年の春、黒川さんは航志朗さんに『岸家の裏の森と私を交換しようか』とご提案されたとのことでしたが、『交換』とはどういう意味なのでしょうか?」

 早口で言ってから、急に安寿の心臓の鼓動が早くなった。耳の奥がどくんどくんと脈打っている。急に安寿は自分が軽率な行動を取っているように思えてきた。航志朗に対して申しわけが立たないことをしてしまうかもしれないと不安におちいる。

 (でも、航志朗さんのためなら、私はどうなっても構わない)

 しばらくの間、無言で黒川は安寿を見つめた。安寿は黒川を見返した。真っ黒な黒川の瞳にどうしようもない恐怖を感じるが、黒川から視線が離せない。今まで感じたことがない不思議な感覚に捕らえられる。頭のなかでその感情を言葉にしようと安寿は切実に試みた。

 やがて、安寿は気づいた。黒川の瞳の奥に何かが映っている。──それを私は知っている。

 (このひと、懐かしい感じがする。どうして? 航志朗さんにどことなく似ているから?)

 すっと黒川は立ち上がった。安寿に背を向けたままで黒川は言った。

 「安寿さん、僕についておいで。もし君にその覚悟があるのなら」

 「『覚悟』?」

 嫌な予感がして、安寿の声は少し震えた。

 「そう。つまり僕が航志朗くんにあの森を譲渡する代償に、彼の妻である君を僕の好きなようにしていいっていう覚悟だよ、安寿さん」

 (やっぱり、そういうことなんだ……)

 安寿の脳裏に、莉子が京都の大翔の母に聞いた黒川の悪い噂が浮かびあがった。

 「以前、黒川さんがおっしゃっていた二千億円の価値が私にあるとはとうてい思えませんが」

 そう言ってから安寿は思った。

 (二千億円という金額自体、私はその価値がまったくわからないし、わかるわけがない)

 「それはどうかな……」

 黒川の背中しか見えないが、黒川はにやっと笑ったようだった。

 黒川は少し振り返って、目を細めて安寿に尋ねた。

 「安寿さん、僕についてくる? それともこのまま逃げ帰る?」

 安寿は思わず隣に置いた黒革のショルダーバッグのストラップを握りしめた。

 (今なら引き返せる。でも、私は航志朗さんを守りたい)

 安寿は立ち上がって落ち着いた声で言った。

 「あなたについていきます」

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