今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 プライベートな空間を美術館として一般公開することにしたのは、彼の提案だった。

 内装のリノベーションが終わって絵を展示すると、彼は言った。

 「この空間にやって来て、私のようにノスタルジーを感じる方がきっといらっしゃると思います。私の専門のアート・マネジメントの分野では『アートの公共性』という概念があります。一枚の絵を所有することは個人的なことですが、アートが置かれた空間は公共性につながる可能性に満ちているということです。黄女士、いかがでしょう、あなたの美意識をこの世界に羽ばたかせてみませんか?」

 思わず静思は両目から大粒の涙を流した。隣に座っていた夫に静思は抱きついた。静思を抱きとめながら、静思の夫は驚いた顔をして彼を見つめた。

 その時、静思は確信した。

 (私は、ずっと本当の自分ではない人生を生きていると思っていた。でも、それは間違っていた。ママが言った通りに、私はありのままに生きてきたんだ。そして、これからも……)

 それは親密でこぢんまりとしたパーティーだった。炭酸水の注がれたシャンパングラスを持ってタキシードを着用した航志朗は、会場のかたすみから静思を見守っていた。

 静思は夫と友人たちと楽しそうに談笑していた。やがて、静思が航志朗の近くに寄って来た。静思はクリームイエローの上品な旗袍(チーパオ)を身にまとっている。結婚指輪以外、何も装飾品は身につけていない。航志朗は微笑みながら静思に言った。

 「黄女士、美しいお姿ですね」

 「あら、岸先生、年上の女性を喜ばせるのがお上手なんですね。年上とはいっても、私はきっとあなたのお母さまと同じくらいの歳だと思いますけれど。あなたも幸せな子ども時代をお過ごしになられたのでしょうね。美しいお母さまと賢いお父さまとご一緒に」

 一瞬、航志朗は顔を曇らせてから静かに言った。

 「幸せとは真逆でした。私の子ども時代は……」

 思わず青ざめた静思は心から後悔してうつむいた。

 (私ったら、最後の最後でなんて失礼なことを言ってしまったの。心優しい岸先生と、もうすぐお別れすることになるのに)

 その静思の姿を航志朗は穏やかに見つめてから言った。

 「黄女士、あなたにお尋ねしたいことがあるのですが」

 「はい。なんでしょう?」

 あわてて静思は顔を上げて訊いた。

 心なしか頬を赤らめて、航志朗はおずおずと尋ねた。

 「実は、先程あなたの美しいお姿を拝見して、私の妻にチャイナドレスをプレゼントしたいと思いました。あの、上海のおすすめのお店を教えていただけませんか?」

 「もちろんご紹介させてください、岸先生!」

 ぱっと表情を明るくさせて静思は嬉しそうに大声で叫んだ。その笑顔は初めての恋がかなった可愛らしい少女のようだった。



 






















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