今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その三日後に安寿は熊本駅に降り立った。初めての九州だ。頬に触れる熱気を帯びた空気とすれ違う人びとが話す言葉のイントネーションになんだか落ち着かない気分になる。だが、もうすぐ航志朗に再会できる。きょろきょろ辺りを見回してから改札口に向かう。そこには航志朗が待っているはずだ。

 シルバーのスーツケースを引いた安寿はいったん立ち止まり、手鏡をショルダーバッグの中から取り出して髪と顔を確認した。鏡に映った自分は嬉しすぎて顔がほころんでいる。

 安寿は大翔の母に持たされた京都土産の入った紙袋も持っている。実は昨日途中下車して、京都の伏見区にある大翔の実家に泊まってきた。もちろん大翔と一緒に帰省している莉子が誘ったのだ。今朝、京都駅での別れ際に莉子は残念そうに言った。

 「一泊だけなんて短すぎるー。安寿ちゃんとゆっくり京都観光したかったのにな」

 隣にいる大翔が莉子のこめかみを人さし指でつついた。

 「おいおい莉子。熊本で岸さんが安寿さんを待っているんだ。一泊だってわがまま言って安寿さんを引き止めて、岸さんに申しわけなかっただろ」

 莉子と大翔は一緒に新幹線ホームまで来て見送ってくれた。「また後期にね!」と安寿は言って新幹線に乗り込んだ。三人は互いに大きく手を振り合った。今朝の午前五時半のことだ。それから安寿は新大阪駅で乗り換えて、午前九時すぎに熊本駅に到着した。

 「安寿ー!」

 九州新幹線の改札口に航志朗が立って手を振っているのが目に入った。それに気づいた安寿はスーツケースを転がしながら走り出した。白い半袖Tシャツの上にマキシ丈の黒いリネンキャミソールワンピースを着ているので、転ばないように気をつけながら。自動改札機にチケットが吸い込まれていくと、目の前に航志朗が立っている。航志朗は白いシャツを着てダークグレーのジーンズを穿いている。安寿は麦わら帽子を脱いで航志朗に微笑んだ。久しぶりに会う航志朗に身を寄せたくても、行き交う人びとが多くて躊躇してしまう。だが、真正直に安寿の瞳にはみるみる涙がたまっていった。恥ずかしくても止めることができない。航志朗はそれに気づくと安寿の後頭部に手を回して、安寿の顔を自分の胸に押しつけた。じわっと安寿の涙が航志朗のシャツの胸元に染みこんでいく。航志朗は身も心も震わすほどに安寿を愛している自分を感じた。安寿もよそよそしいクリーニングの香りがするシャツの下に航志朗の匂いを感じて胸を高鳴らせた。

 「安寿、レンタカーを借りてある。さあ、行こうか」

 安寿は顔を離して航志朗を見上げて言った。

 「はい、航志朗さん……」

 安寿の両目も両頬も真っ赤だ。抱きしめたくなるのをなんとかこらえて、安寿のスーツケースのハンドルと安寿の手を握って航志朗は歩き出した。航志朗の大きな手に包み込まれる感触に、安寿はずっと緊張していた全身の力が抜けていった。

 (やっとまた彼に会えた。もう嬉しくて、嬉しくてたまらない……)

 熊本駅の地下駐車場の一番奥に国産のハイブリッドカーが停まっていた。車体の色はダークグレーだ。周りには一台の車もない。航志朗はスマートキーをドアノブにタッチして解錠した。一瞬、安寿は顔をしかめた。黒川の車を思い出したからだ。黒川には八月中は黒川家に行かないと前もって伝えてある。その時、黒川は安寿の顔をのぞき込んで言った。

 「シンガポールにいる航志朗くんのところに行くんだね? 飛行機に乗って」

 即座に安寿は否定した。

 「いいえ、違います」

 「別に僕に見えすいたうそをつく必要はないんじゃない? 安寿さん」

 「うそではありません。私、飛行機に乗れないので」

 意外にも黒川はまったく驚かなかった。

 「ふうん、……僕と同じだね」

 「えっ?」

 安寿の方が驚いた。

 「僕は飛行機に乗ったことがないし、当然のことながら外国に行ったこともない」

 「そうなんですか?」

 「ああ。別に行きたいとも思わないし、その必要性もない」

 「そうですか……」

 「安寿、どうした?」

 助手席のドアを内側から航志朗が開けて言った。我に返った安寿はレンタカーに乗り込んでドアを閉めた。薄暗い車内に安寿と航志朗は二人きりになった。急にしんとした空間に身を置いて、安寿は隣にいる航志朗を見つめた。スマートフォンを見ながら航志朗はカーナビゲーションにアドレスを入力している。思わず安寿は身を乗り出して航志朗にきつく抱きついた。そして、とぎれとぎれに航志朗の名前をもだえ苦しむようにささやいた。

 「こう、し、ろう、……さん」

 目を大きく見開いた航志朗はスマートフォンを足元に落とした。航志朗は安寿から切に求められる喜びに身をこがすのと同時に、漠然とした不安感が襲ってきた。春にマンションの前で別れた時に安寿が思い詰めた表情をしていたことが、ずっと航志朗の頭のかたすみにこびりついていた。

 航志朗は安寿に小声で尋ねようとした。「安寿、何かあったのか?」と。だが、それを口に出す前に、安寿に唇で口をふさがれた。ふたりはきつく抱き合って唇を重ねた。安寿は肩で息をしながら全身でしがみついてくる。あまりに積極的な安寿の態度に航志朗は顔を赤らめた。

 (再会してからわずかな時間しか経っていないのに、この調子じゃとんでもないことになるな。さっき駅前のドラッグストアであれを多めに買っておいて正解だったな)

 航志朗は、今、まさに始まったばかりの安寿と二人きりの長い休暇に胸を弾ませた。

 その時、ふたりの足元でスマートフォンが鳴った。その音に急に理性を取り戻した安寿は手を伸ばしてスマートフォンを拾い、航志朗に手渡した。顔を真っ赤にさせて安寿はあわてて離れようとしたが、航志朗に抱きすくめられた。そのまま航志朗は画面をタップして、冷静な口調で応答した。

 「はい、岸です。古閑(こもり)さん、こんにちは。このたびは大変お世話になります」
 
 航志朗は腕の中の安寿の頬にキスすると、安心させるかのように微笑みかけた。どうやら電話の相手の「古閑」という人物の別荘を借りるらしい。

 (古閑さん? どこかで聞いたことのある名前……)

 そう思って安寿は首をかしげた。

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