今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その時、高い音が鳴った。安寿と航志朗は顔を見合わせた。何の音だかわからない。

 「あの、インターホンの音でしょうか?」と安寿がおずおずと言った。

 眉間にしわを寄せて航志朗が言った。

 「来客の予定は入っていない」

 航志朗は安寿のキャミソールを脱がせようと手をかけた。安寿はLDKのドアの側にあるモニターに人影が映っているのに気がついた。

 「航志朗さん、どなたかいらっしゃったみたいですよ」

 航志朗も顔を上げてモニターを見た。

 航志朗は安寿から身体を離して立ち上がると、前髪をかき上げてモニターに向かった。父と同じくらいの年代の男の姿が映っている。航志朗は通話スイッチを押して応答した。

 「はい、どちらさまですか?」

 その男はモニターに向かって丁寧に頭を下げて言った。

 『岸さま、お初にお目にかかります。私は、古閑家の使用人の五嶋(ごとう)と申します。このたびは当地にご来訪いただきまして、誠にありがとうございます。何かご用命はございますでしょうか。また、古閑家当主からの心ばかりの品もお持ちいたしました』

 「それはご丁寧にありがとうございます。今そちらに参りますので、お待ちください」

 『岸さま、誠に恐縮でございます』

 モニターに向かって五嶋はまた深々と頭を下げた。
 
 床に落ちたTシャツを拾って被ると航志朗は玄関に向かった。航志朗の背中は明らかにいら立っている。安寿もワンピースのボタンを留めて髪を手ぐしで整えてから航志朗の後を追った。

 玄関ドアを開けると五嶋は「失礼いたします」と言って、台車から二つの箱とクラフト紙製の重量のある大袋を両手で軽々と持ち上げて玄関に置いた。箱の一つは大きめの段ボール箱で、もう一つは発泡スチロール製の小ぶりの保冷箱だ。また五嶋は頭を下げて改めてあいさつをした。

 航志朗もてらいなく頭を下げた。

 「五嶋さん、これから一か月間、こちらに妻ともどもお世話になります。なにとぞよろしくお願いいたします」

 気さくに航志朗は尋ねた。

 「アカネさんがこちらにお着きになる前に、古閑家のご当主に妻とごあいさつにうかがってもよろしいでしょうか?」
 
 微かに五嶋は顔を曇らせた。だが、すぐに航志朗に微笑んで言った。

 「アカネさまがお帰りになられましたら、毎年恒例の夏の晩餐会を催しますので、岸さまとご夫人にご出席をたまわりたいと存じます。その際に、アカネさまより当主をご紹介申しあげます」

 「……わかりました」

 腑に落ちない様子で航志朗はうなずいた。

 玄関にやって来た安寿は航志朗の斜め後ろに立ち、深々と五嶋にお辞儀をした。

 「妻の安寿です」と航志朗が五嶋に紹介すると、安寿は「お世話になっています。よろしくお願いいたします」と言ってまた頭を下げた。長い黒髪が安寿の顔にかかった。

 一瞬、五嶋は目を見開いて安寿の顔をじっと見たが、すぐにしゃがんで二つの箱をふたりの前で開けた。段ボール箱には取れたての新鮮な野菜がたっぷりと詰められていた。小ぶりのスイカも入っている。保冷箱には小さなアジがたくさん入っていた。

 「この地方では『あじご』と申しまして、初夏に出回るマアジでございます。から揚げにして南蛮漬けにするのがおいしゅうございます。よろしかったら、こちらに当家の料理人を連れて参りますが……」

 両手を振りながら安寿はあわてて断った。

 「あの、私、お料理できますので大丈夫です。お魚もお野菜もとても新鮮でおいしそうですね。五嶋さん、ありがとうございます」

 安寿は嬉しそうに五嶋に微笑みかけた。

 さっと五嶋は頬を赤らめた。

 「いえ、とんでもございません! 食材は毎日お届けいたしますので、なにとぞご賞味くださいませ。他にも何かございましたら、私にご遠慮なくお申しつけくださいませ、安寿お嬢さま!」

 五嶋は安寿を見ずにうつむきながら早口で一気に言った。

 安寿を横目で見ながら航志朗は思った。

 (また一人、安寿のファンが増えたな。だけど「お嬢さま」はないだろう)

 五嶋は携帯の電話番号が書かれてある名刺を航志朗に手渡した。五嶋の後ろ姿を見送ると安寿は紙袋を開いて言った。

 「お米までご用意してくださったんですね。航志朗さん、ここでのお食事を楽しみにしていてくださいね。私、がんばってお料理しますから!」

 そう言うと、安寿は勢いよく保冷箱を持ち上げてキッチンに運んだ。後に続いて航志朗も段ボール箱と米袋を運びながら思った。

 (ああ、彼女をベッドに連れて行くタイミングを完全に失ったな……)

 航志朗はがっくりと肩を落とした。

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