今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と恵は地下鉄を二回乗り換えて、岸宗嗣の個展が開催されている銀座の画廊に到着した。安寿は画廊の入った建物を見上げて思わずため息をもらした。まるでパリの街角にやって来たような気分になった。とはいっても、安寿は海外に一度も行ったことはないし、飛行機にすら乗ったことがない。建物の外壁はニュアンスのあるグレイッシュな白壁でツタに覆われている。エントランスには、立て札がついた豪勢な花のアレンジメントがいくつも飾られていた。ふたりともいささか緊張の面持ちで互いの顔を見合わせた。

 「安寿、……入ろうか?」

 恵が覚悟を決めたように言った。

 「うん。ちょっとどきどきする」

 画廊に一歩踏み出した安寿は、一瞬、自分の左足がうずいたのを感じたが、気にもとめなかった。
 
 個展が開催されている「黒川画廊」は、都内有数の老舗アートギャラリーである。オーナーを務めるのは、岸華鶴(きしかづ)で、岸宗嗣の妻でもある。華鶴は鎌倉時代から続く黒川家の出身である。高校卒業後、フランスの大学を卒業して実家の美術商を継ぎ、容顔美麗のギャラリストとしてその名が知られている。華鶴は岸より二歳年上で、岸夫妻は画壇の「おしどり夫婦」としても羨望の(まと)である。また、ふたりの間には海外在住の二十代半ばの一人息子がいる。

 五階建ての黒川画廊は、銀座の閑静な裏通りに北向きでひっそりと建っている。一階から二階は企画画廊、三階は常設展示、四階はオフィスで、五階は住居スペースになっている。企画展が開催される以外は、オーナー兼ギャラリストの華鶴が基本的に一人で経営している。貸画廊業はしていない。住居スペースは、いわば華鶴個人の別宅のようなもので、本宅は画廊から車で五十分ほどの東京郊外にある。

 恵は入口脇のレセプションで白髪頭の初老の男に招待状を見せて受付を済ませ、安寿と会場に入った。一階には十人ほどの客がいて、やはりひと目で富裕層に属する人びとだとわかるような身なりをしている。思わず安寿は上品な物腰の夫人が着こなした蒲公英(たんぽぽ)柄の訪問着に見入ってしまった。恵に肘でつつかれて、安寿はあわてて目をそらした。顔見知りが多いらしく、それぞれがグループになって歓談している。

 「あれ、白戸さんじゃないの? 久しぶり。そちらはあなたの娘さん? 意外に大きなお子さんがいらっしゃるんだね」

 入場者の中では比較的若くこざっぱりした和装姿の男に恵は声をかけられた。恵は特に訂正もせず急にビジネスライクになり、その男に向かって丁寧にお辞儀をした。

 恵はダークネイビーのワンピースにボレロ風のジャケットを着ている。制服姿の安寿と並んでいるとお受験ママのように見えるのかもしれない。

 その男の隣には、ゼニスブルーのジョーゼットのボウタイブラウスにホワイトのワイドパンツを穿いた細身の女が立っている。

 「安寿、仕事でお世話になっている彫刻家の川島閑堂(かわしまかんどう)先生と、この画廊のオーナーの岸華鶴さんよ」

 安寿はあわてて叔母のまねをして、ふたりにお辞儀をした。緊張でこわばった顔を上げると、はっと息を吞むような華鶴の美しい微笑に迎えられた。

 (こんなに美しい女性(ひと)が、この画廊のオーナーなのね……)

 安寿は思わず心惹かれて、まばたきもせずに華鶴に見とれてしまった。

 華鶴はふいに何かに気づいた様子で、安寿に微笑みながらやや低めの甘い声をかけた。

 「あら、可愛らしいお嬢さん。あなた、清華(せいが)美術大学付属高生でしょう? 制服、まだそのデザインなのね。懐かしいわ。そうそう、高野光子(たかのみつこ)先生は、今もご在職されていらっしゃるのかしら?」

 (たかの先生?)

 安寿は聞いたことがある名前だと少し考えて、はっと思い浮かんだ。

 「あ、あの、校長先生のことですね!」

 「まあ、お元気そうで嬉しいわ。高野先生、私の担任の先生だったのよ」

 華鶴はさも嬉しそうに微笑んだ。

 「おやおや、華鶴さんのご後輩なんですね。よろしくね、お嬢さん」

 川島は笑顔でなかば強引に安寿の手を取って握手した。

 その川島の態度を見て眉間にしわを寄せた恵は、「私は少しおふたりと仕事の話をするから、ひとりで作品を見せていただいてね」と安寿に声をかけた。安寿は恵にうなずいて、また華鶴と川島にお辞儀をしてからその場を離れた。華鶴は微笑みながら安寿をずっと目で追っていた。

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