今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗は古閑家のエントランスに入った。豪華なシャンデリアがこうこうと照らす玄関ホールに古閑アカネが立っていて、ふたりをにこやかに出迎えた。アカネは艶やかな茜色の草木染の着物にモダンなデザインの織りの帯を締めている。アカネの後ろには彼女の夫らしきスーツ姿の男が落ち着いた微笑を浮かべて立っていた。

 「岸先生、ようこそいらっしゃいました。まあ、なんて可愛らしい奥さまなんでしょう!」

 初対面の華やかな美しい女性に顔をのぞき込まれて、安寿は航志朗の腕をぎゅっと握った。だが、安寿は果敢に微笑んであいさつした。

 「古閑さま、ご招待いただきましてありがとうございます」

 アカネの前で安寿はぎこちなくお辞儀をした。アカネはにっこり笑うと、振り返って後ろの男に向かって言った。

 「一誠(いっせい)さん、彼女があなたがおっしゃっていたあの安寿さんね」

 古閑はうなずくと安寿を見て言った。

 「あなたが油絵学科の岸安寿さんですね。あなたの素晴らしい作品を学内展覧会で拝見しました」

 安寿も航志朗も驚いて古閑の顔を見つめた。

 「僕のことはご存じないかと思われますが、僕は清美大で中国美術と中国語の講師をしているんです。アカネ、静思に見せてあげたいね、彼女の美しいお姿を。ぜひ、後ほどご一緒に記念写真を撮りましょう」

 その言葉を聞いて内心とても困惑したが、安寿はそれをひた隠して会釈した。

 アカネと古閑はふたりを広間に案内した。広間の重厚なドアを開けると、ベートーヴェンの弦楽三重奏曲が聴こえてきた。ヴァイオリンとヴィオラ、チェロの三人の奏者の生演奏だ。長いテーブルにレース刺繍の白い布が掛けられた椅子が並んでいる。すでに他の招待客たちが椅子に腰掛けて談笑していた。

 全員が八十代以上とおぼしき高齢の男女で、車椅子に座っている男もいた。安寿と航志朗が一番すみの席に並んで着席すると、招待客たちはいっせいにふたりを見て穏やかに会釈した。あわてて安寿も頭を下げた。こなれた様子で航志朗も品よく会釈した。

 数種類のグラスとカトラリーが並べられた白いテーブルクロスの下で航志朗は安寿の手をしっかりと握った。相変わらずのひんやりとした冷たい手だが、安寿はゆっくりと呼吸をして気持ちを整えられた。ひそかに安寿は招待客の人数を目で追って数えた。古閑夫妻を含めて十一人いた。

 生演奏は続いた。やがて、深い青紫色の無地の着物をまとった女がひとり広間に入って来た。古閑家当主、古閑ルリだ。トリオが奏でる生演奏のメロディーがだんだん小さくなって止んだ。安寿はルリをひと目見て思った。

 (やっぱりあの時のお方だ。あの美しい着物の色、きっと瑠璃色……)

 ルリはテーブルに着いた招待客たちが見渡せる中央の席の前に立ち、場を清めるような澄んだ声で言った。

 「皆さま、今宵は古閑家にようこそいらっしゃいました。そして、長きにわたるご厚意に心から感謝いたします。このたび、曾祖父、祖父、父が三代に渡って所蔵しておりました美術品をすべて在るべきところに送り出す目処が立ちました。従いまして、私は古閑家を私どもの代で終わらせる所存でございます」

 (『在るべきところに送り出す』?)

 安寿は不可解に思った。まったくわけがわからない。

 ルリの隣にいる車椅子に座った最年長らしき温厚そうな男がねぎらいの言葉をかけた。

 「ルリお嬢さま。アカネお嬢さまと共にお力を合わせて、これまでよく務めてこられましたね。先々代も先代もあの世でお喜びになられていることでしょう。物故された芸術家のご遺族もご存命の芸術家とそのご家族も、きっとあなたがたに心から感謝していると思いますよ」

 「中村さま。もったいないお言葉を頂戴いたしまして、心より感謝申しあげます」

 安寿の目の前に座ったアカネは汕頭(スワトウ)刺繡の白いハンカチで赤く染まった目を押さえていた。古閑がそっとアカネの肩を抱いた。

 表情には出さないが、ひそかに航志朗は考え込んでいた。

 (古閑家から依頼されていたのは、所蔵美術品の整理だったのか。とすると、ここでの俺の仕事はもはやないってことだよな。だとすると、どうして俺はここに呼ばれたんだ? それに、ほぼ初対面の俺たちの前で一族の内密な事情を披露するなんて、いったいどういうことなんだ……)

 ルリが続けて言った。

 「皆さま、心ばかりの(うたげ)をご用意させていただきました。どうぞご歓談されながらお楽しみくださいませ」

 給仕が数人入って来て、アペリティフのスパークリングワインをフルート型のシャンパーニュグラスに注いでいった。招待客たちは優雅にグラスをかかげて金色に輝くワインを口にした。内心あせりまくりながら、安寿も周囲のまねをして口にした。喉がからからだったので、思わず安寿は一気にワインを飲み干してしまった。あわてて航志朗が安寿の耳元に顔を寄せて小声でささやいた。

 「安寿、大丈夫か」

 一瞬で安寿は顔を赤らめた。それはアルコールの効果ではない。羞恥心からだった。すぐに手を上げて航志朗は給仕を呼び水を頼んだ。

 (私ったら、さっそく失敗しちゃった……)

 思わず安寿は深くうつむいた。

 その時、安寿は隣に座ったふくよかな老婦人に声をかけられた。

 「お初にお目にかかります。私は鹿児島から参りました徳重と申します。大変失礼ですが、どちらからいらっしゃられたのですか?」

 「東京からです」

 なんとか落ち着いた声で安寿は答えた。

 向かい側から安寿を気遣うように、古閑が老婦人に話しかけた。

 「徳重さま。彼女は私が勤めている美術大学の学生なんです」

 興味深そうに老婦人はくりくりとした目をまん丸くして言った。

 「まあ、そうなんですの。お嬢さま、何をご専攻されていらっしゃるの?」

 「油絵です」

 「まあ、素敵! ぜひご作品を拝見させていただきたいわ!」

 苦笑を浮かべながらアカネが言った。

 「徳重さま。安寿さんは『お嬢さま』ではなくて『奥さま』なんですよ」

 また徳重は「まあ、素敵!」と場違いな大声をあげて安寿と航志朗に微笑みかけると、目の前に注がれた白ワインをくいっと口にした。

 「私もあなたくらいの歳に結婚したのよ。私の夫は彫刻家だったの。そして、私は彼のモデルだった。裸婦像のね」

 ウエーブのかかった真っ白な頭を傾けて、意味ありげに徳重は微笑んだ。

 航志朗は安寿を見つめた。口にも顔にも出さないが、航志朗は安寿のことが心配になってきた。

 (なんだか奇妙な雰囲気だな。大丈夫か、安寿……)

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