今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 「万里絵(まりえ)ちゃん、大丈夫?」

 戻って来た安寿が廊下から声をかけた。安寿の隣には航志朗が立っている。女の子は顔を上げて弱々しく安寿に微笑みかけると、ほっとしたようにつぶやいた。

 「安寿お姉ちゃん……」

 「万里絵ちゃんもここに来ていたのね」

 万里絵はうなずいた。万里絵はルリの絵画教室で「空に浮かんでいる島」を描いていた女の子だ。安寿は万里絵の汗ばんだ手をそっと握って言った。

 「このお兄さんね、私の大学の先輩なの。それに、航志朗お兄さん(・・・・)の子どもの頃からのお友だちよ。だから心配しないでね、万里絵ちゃん」

 (「心配」って、どういう意味? 安寿さん……)

 思わず容はいたたまれない気持ちになった。

 「万里絵ちゃん、おやつの時間だよ。みんな広間に集まっている。一緒に行こう」

 航志朗も優しく声をかけた。航志朗は安寿が「航志朗お兄さん」と口にしたことに満足していた。実は、絵画教室の子どもたちの前で、安寿が「航志朗おじさん」と呼ぶことに抗議していたのだ。航志朗はよくよく安寿に言い聞かせた。「安寿、俺はまだ二十代だ。『おじさん』と呼ばれるのは、かなり抵抗がある」と。安寿は首を傾けてぜんぜん納得していない様子だったが「……わかりました」と言って了解した。

 長い廊下を歩いて四人で広間に向かった。窓には大粒の雨が激しく打ちつけている。得体の知れない怪物が低い声でうなるような音も聞こえてくる。安寿はつないだ万里絵の手をぎゅっと強く握った。万里絵は心配そうに安寿の顔を見て尋ねた。

 「安寿お姉ちゃんも台風が怖い?」

 安寿は航志朗の視線を感じながら正直に答えた。

 「うん。ちょっと怖い」

 それを聞いた航志朗は安寿の背中にそっと手を置いた。安寿が見上げると航志朗は微笑んでうなずいた。安寿も航志朗に微笑み返した。

 広間では集まった人びとが溜塗の椀を手に持って温かい汁粉を啜っていた。優しく目を細めながらルリが自ら大鍋から汁粉を椀によそって、それを五嶋が配っている。安寿と万里絵も五嶋から椀を渡されて並んで椅子に座って味わった。

 「万里絵ちゃん、おいしいね」

 小さく万里絵はうなずいた。ふたりの後ろで航志朗と容が立って汁粉を啜った。

 「白玉だんごと栗の甘露煮が入ってる! おいしいですね、航志朗さん」

 「ああ。……ん? 容のおしるこ、栗がたくさん入ってないか?」

 「あげませんよ、航志朗さん。僕、栗好きなんで」

 振り返らずに安寿は肩を震わせた。

 「奇遇だな、安寿と俺も栗好きだよ」

 安寿の隣で万里絵が小さい声でつぶやいた。

 「私も栗が好き……」

 安寿は万里絵を見て微笑んだ。
 
 そこへ赤ちゃんを抱いた母親がやって来て、安寿に深々とお辞儀をして言った。

 「私、万里絵の母です。安寿さまですよね? ルリさまの絵画教室で万里絵が大変お世話になりまして、ありがとうございます」

 あわてて安寿は立ち上がってお辞儀をした。

 「万里絵ちゃんのお母さんですか! こちらこそ、ありがとうございます!」

 安寿の後ろに立った航志朗の足に万里絵の弟がしがみついて言った。

 「こーしろーおにーちゃん!」

 「海音(あまね)くんも、おしるこ食べた?」

 元気よく海音はうなずいた。

 「うん! 二杯も食べたよ。すごいでしょ!」

 かがんで航志朗は海音の頭を優しくなでた。

 「まあ、この子の名前まで覚えてくださって!」

 万里絵と海音の母が驚いたように言った。

 「はい。海音くんは私の曾祖父と同じ名前なので、すぐ覚えました。曾祖父の漢字の表記は『海音』ではなく『周』と書きますが」

 安寿は後ろを振り返って航志朗の顔を見て思った。

 (航志朗さんのひいおじいさまは「周」さんっていうんだ。そういえば、私は自分のひいおじいさんの名前を知らない。……お父さんの名前もだけど)

 思わず安寿は顔を曇らせてうつむいた。

 もじもじしながら万里絵は安寿にゆっくりとした口調で説明した。

 「私のお父さんね、この町の漁協で働いていて、今夜は漁協の事務所で当直なの。それをルリ先生が聞いて、私たちが心配だから今夜はお屋敷に泊まりなさいって」

 だんだんと温かい気持ちが戻って来て安寿はうなずいた。

 (ルリさんは先代のご遺志を継いでいらっしゃるんだ。それに五嶋さんが持って来てくださったあの新鮮な魚介って、万里絵ちゃんのお父さんの漁協のものなのかもしれない)

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