今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿は絵皿の上で膠液と瑠璃色の岩絵具を直接右手の人さし指で混ぜ合わせた。瑠璃色に染まった人さし指の先をじっと見つめる。

 その姿を見た航志朗が安寿の隣に座って、安寿の手を取って言った。

 「安寿、この色だな? ずっと君が求めていた色は」

 その言葉にうなずいた安寿は人さし指を航志朗の手のひらにこすった。航志朗の手のひらに瑠璃色が咲いた。一瞬、ふたりは微笑み合ったが、なぜか安寿は寂しげだった。

 瑠璃色の岩絵具を安寿は襖に塗り始めた。次から次へと小さな青紫色の可憐な花が開いていく。小声で万里絵が言った。

 「わかった! 安寿お姉ちゃんが描いているお花、……ルリハコベの花だ」

 「ルリハコベ?」

 容は万里絵に尋ねてから思った。

 (初めて聞く花の名前だな……)

 「うん。ルリ先生のお庭に春に咲くお花なの。とってもきれいなお花よ」

 「そうなんだ」

 万里絵は容を見てしっかりとうなずいた。

 驚いた顔をして、ルリは万里絵と容のやり取りを見つめた。

 その時、今までで一番大きな雷の鳴動が立て続けに響いた。またたく間に電灯が消えて真っ暗になった。思わず小さく悲鳴をあげた万里絵は容にしがみついた。容は万里絵をそっと優しく抱きしめて言った。

 「万里絵ちゃん、大丈夫、大丈夫。停電だね。きっと近くに雷が落ちたんだ」

 落ち着いた声でルリが五嶋に言った。

 「衆さん。ここは私に任せて、皆さまのところに行ってきて」

 「承知しました。ルリさま」

 暗闇に目を慣らすと五嶋は立ち上がって廊下を歩いて去って行った。

 航志朗は安寿を後ろから抱きしめていた。航志朗の腕の中で安寿は深く息を吸って吐いている。今まで呼吸することをすっかり忘れていたかのように何回も繰り返して。

 「安寿、大丈夫か」と航志朗が声をかけると、微かに安寿はうなずいた。航志朗は安寿の頬に顔をこすりつけた。たまらずに暗闇の中で安寿に唇を重ねる。だが、安寿はなすがままで、何も感じないかのように身じろぎもしない。その手ごたえのなさに航志朗はいら立ちを感じた。

 安寿は顔を背けて航志朗の唇を外して言った。

 「明かりをください。絵の続きを描きます」

 その冷淡にも受け取れる安寿の声に航志朗は恐怖を覚えた。

 慎重にルリは真闇の中を仏壇の前に行き、手探りで仏壇の灯明立(とうみょうたて)を手に取り、ろうそくにマッチで明かりを灯して言った。

 「皆さま、大丈夫?」

 安寿と航志朗と容と万里絵はろうそくの明かりに照らされるとそれぞれルリにうなずいた。ルリは香炉に数本のろうそくを立てるとマッチで火を灯して航志朗に手渡した。

 「航志朗さん、これを使ってください」

 再び安寿は画筆を握って襖の上にルリハコベの花を描き出した。安寿の手元を航志朗が香炉を持って照らす。ふたりは黙ったままだ。航志朗は安寿の筆先を的確に照らしている。ろうそくの明かりに照らされた安寿の瞳はまたもや漆黒に色づき、安寿の感情はまったく読めない。もしかしたら今の安寿は感情というもののすべてを失くしているのかもしれない。

 息を呑むほどに美しい花の絵がろうそくの明かりに浮き上がる。まるで海から吹いて来る風に揺らされているかのように、ルリハコベの花がゆらゆらと動く。その一枚一枚の花びらは小さな炎のようにちらちらと燃えているようにも見える。

 それは美しくも恐ろしい光景だった。ずっと万里絵は容にしがみつきながらその光景を見つめていた。万里絵は夢と現実の区別がつかなくなってきた。それから、どうしようもなく万里絵のまぶたはだんだん重くなっていった。容は腕時計を見た。午前二時を過ぎている。その時、ことんと万里絵は全身で容に寄りかかった。

 「万里絵ちゃん?」

 容が万里絵の顔をのぞき込むと、万里絵は眠りに落ちていた。容は万里絵を抱き上げると、ルリの案内で万里絵の家族に割り当てられた部屋に彼女を運んで行った。

 安寿と航志朗は二人きりで襖に向き合った。航志朗は安寿のことがひどく心配になってきた。何度も画筆を握る手を止めようと思ったが、安寿の猛烈な勢いに手が出せない。ただ航志朗は安寿の手元を照らすことしかできなかった。

 いつのまにか外は静かになっていた。東の空がうっすらと明るくなってくると、がくっと安寿は画筆を下ろした。

 「……描き終わった」

 そう安寿はほっとしたかのようにつぶやくと両肩を落として畳の上に突っ伏した。

 「安寿!」

 あわてて航志朗は安寿を抱き上げて安寿の顔をのぞき込んだ。

 目を閉じて安寿は眠っていた。すぐに離れて見守っていたルリが立ち上がって布団を敷いた。航志朗は安寿を布団に横たえた。安寿にそっとタオルケットをかけると航志朗はルリを見た。ルリは襖の前に横座りして安寿が描いたルリハコベの花にそっと手を触れた。

 小さな声でルリはつぶやいた。

 「よかったわね、康生さん。これでもう寂しくはないわね……」

 声を出さずにルリは泣いているようだった。胸を痛めながら航志朗はルリの後ろ姿を見つめた。

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