今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿は木箱をそっと開けた。使い込まれた道具が隙間なく収められてある。傷だらけのペインティングナイフに安寿の顔が映った。黒光りしている自分の目を見て、急に安寿は油絵が描きたくなってきた。

 その時、五嶋は横を向いて微笑みかけた。いつのまにか五嶋の隣に万里絵が立っていた。万里絵は手をぐっと握りしめて大声で言った。

 「安寿お姉ちゃん!」

 振り返った安寿は「万里絵ちゃん、おにぎり食べた?」と優しい声で尋ねた。

 万里絵はそれには答えずに聞き返した。

 「東京に帰っちゃうの?」

 安寿は小さくうなずいた。

 目に涙をいっぱいにためた万里絵は、手に持った丸めた紙を安寿に差し出した。

 「これ、安寿お姉ちゃんに」

 「私に絵を描いてくれたの。ありがとう、万里絵ちゃん。開いて見てもいい?」

 顔を真っ赤にして万里絵はうなずいた。

 安寿は手渡された紙を広げて、思わずふわっと顔をほころばせた。横から航志朗ものぞき込んで照れたように笑った。

 万里絵の絵には、安寿と航志朗の姿が描かれてあった。ウエディングドレスとタキシードを着たふたりは、笑顔で青い海の前に立って手をつないでいる。素直に安寿の胸の内には嬉しい気持ちが広がったが、やがて、やり場のない悲しみがじわじわと混じってきた。どうしようもなく安寿は複雑な気持ちにおちいった。

 声を詰まらせながら安寿はなんとか礼を言った。

 「万里絵ちゃん、ありがとう……」

 そっと航志朗は万里絵の肩に手を置いて言った。

 「万里絵ちゃん、ありがとう。実は、お兄さんたち、まだ結婚式を挙げていないんだ。でも、いつか結婚式を挙げようと思っている。その時は、きっとこんな風になるんだろうな。そうだろ、安寿?」

 うつむいた安寿は何も答えられなかった。

 (こんな未来は絶対に私たちには来ないのに。それでも、私はいつかこんな日が来たらいいなって、どうしても思ってしまう。あとでつらい想いをするのは、じゅうぶんわかっているはずなのに……)

 一見、嬉しそうに微笑んでいるように見えるが、心から微笑んでいない安寿の様子に気づいた航志朗は人知れず眉間にしわを寄せた。

 (やっぱり、安寿はいつか俺と別れるつもりでいるのかもしれない。あの契約を真に受けて)

 万里絵の絵に目を落として航志朗は改めて決意した。

 (容が言ってくれた通り、安寿を守れるのは、俺しかいない。一生、俺は安寿のそばにいて、必ず全身全霊で彼女を守り抜く!)

 ルリと五嶋も安寿から手渡された万里絵の絵を見ると顔を見合わせて微笑んだ。そこへぱたぱたと小さな足音がしてきた。万里絵のスケッチブックを抱えた海音が走ってやって来た。

 「まりえおねーちゃん、みてー。これ、なーんだ?」

 「あっ、海音、またお姉ちゃんのスケッチブックにいたずら書きしたのね!」

 「いたずらがきじゃないよ! ホントにかいたんだよ!」

 「それを言うなら『本気で描いた』でしょ?」

 ささやかな姉弟(きょうだい)げんかに声を立てて笑い声をあげたルリが海音を膝の上に抱いて頭を優しくなでた。

 「海音くんだって、絵を描きたいんだよね。ずっと絵を描くお姉ちゃんを見ているから。……あらこれ、おばけ?」

 海音は両頬をふくらませて言った。

 「ちがうよ! きょーりゅーだよ!」

 申しわけなさそうにルリは謝った。

 「あらあら。ごめんなさいね、海音くん」

 五嶋が海音を抱き上げて、ルリと万里絵は姉弟の母がいる部屋に戻って行った。安寿と航志朗は二人きりになった。また安寿は奥の間に入って、しばらくルリの兄が描いた襖絵を眺めた。航志朗は壁に寄り掛かり腕を組んで安寿を静かに見守っていた。安寿はそっと襖絵に手を触れるとつぶやいた。

 「ありがとうございます。……ルリさんのお兄さん」

 帰り支度をした安寿はルリがアトリエにしている和室を航志朗の後に続いて出る時、再び遠目にルリの兄の襖絵を名残惜しそうに見つめた。

 その時、それにふと気づいて、思わず安寿は短い感嘆の声をもらした。

 「どうした、安寿?」

 振り返って尋ねた航志朗の問いに安寿はうつむいて答えた。

 「なんでもありません……」

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