今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 わずかに開いていたサロンのドアを開けると、黒光りするグランドピアノの前に座った航志朗の後ろ姿が見えた。航志朗はピアノの鍵盤から指を離して安寿に向き直ると、両手を広げて笑顔を振りまきながら言った。

 「ただいま、安寿!」

 「航志朗さん、おかえりなさい!」

 安寿はトレイをサロンのローテーブルの上に置くと、一目散に航志朗の胸に飛び込んで行った。ピアノの前の長椅子の上でふたりはきつく抱き合った。美しく結びあげられた帯がほどけていく。航志朗は安寿の顔を両手で包んで言った。

 「パリから直接帰国したんだ。本当はシンガポールに寄る予定だったんだけど、アンが気を利かせて、そのまま安寿が待っている東京へ向かえって言ってくれたから」

 そう言うと航志朗は安寿にキスした。あわてて安寿は唇を離して顔を赤らめながら、食事室へのドアをうかがった。

 仏頂面をして安寿は大声で訴えた。

 「もう! 航志朗さんは、いつも、私の前に突然現れるんだから」

 肩を小刻みに震わせて航志朗は余裕で言った。

 「毎回、君のその驚いて怒った顔がものすごく面白い」

 「面白がらないでください! クリスマスイブに帰るって言っていたのに、びっくりしちゃったでしょ」

 すぐに安寿は言い直した。

 「……じゃなくて、驚きましたよ!」

 目を細めて航志朗は言った。

 「安寿、そろそろ俺に敬語を使わなくてもいいんじゃないのか」

 苦笑いして安寿はそれに答えた。

 「失礼いたします、安寿さまと航志朗坊っちゃん。あらあら、お着物のままでは、再会の抱擁をしづらいんじゃありませんか?」

 エプロンで手を拭きながら食事室からやって来た咲の声に、安寿と航志朗は顔を見合わせた。真っ赤になった安寿は航志朗の膝の上からあわてて降りたが、航志朗は安寿の手をしっかりと握ったままだ。咲はふたりの微笑ましい様子に口に手を当ててくすっと笑ってから、いそいそと言った。

 「はい、おふたりともそのままで笑ってください。お写真を撮りますよ」

 咲は安寿のほどけた帯を手早く結び直して、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出すとレンズをふたりに向けた。

 航志朗は安寿の腰に手を回して言った。

 「ほら、安寿。仏頂面、仏頂面。そのほうが後あと見て面白いからな」

 意固地になって安寿は可愛らしい笑顔をつくった。安寿は航志朗のとっさの策略にはまったことに気づかなかった。

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