今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 翌朝、招かざる客が岸家にやって来た。黒川皓貴だ。

 見覚えのある苔色の着物をまとった黒川は真っ赤なバラの大きな花束を持ってきた。歓迎とは正反対の態度をとる航志朗の目の前で、黒川は岸の作品が完成した祝いだと言って安寿にバラの花束を強引に手渡した。安寿は航志朗の顔を見て困惑した。伊藤と咲は初詣に出かけていて留守だった。今日も岸は母屋に現れていない。

 仕方がなくサロンに黒川を通すと、安寿は三人分の紅茶を台所で淹れたが、黒川にティーセットをサーブする安寿の手元はどうしても震えてしまう。しんと静まり返ったサロンに、小刻みに揺れたティーカップとソーサーの接地面からおびえた鳥の鳴き声のような嫌な音が鳴り響いた。

 不意に黒川は完成した油絵を見たいと言い出した。画家に許可を得ていないと言って、断固として航志朗は断った。顔色をいっさい変えずに紅茶を飲み干すと、黒川は航志朗に面と向かって尋ねた。

 「航志朗くんさ、愛する妻を売るのって、どんな気分?」

 胸をどきっとさせて、安寿は思わず航志朗の顔を見た。

 ぐっとこぶしを握りしめて航志朗は答えた。

 「率直に申しあげますが、まったくもって不愉快です」

 「じゃあ、どうして愛する妻がモデルになった絵を、わざわざ夫の君が顧客のところへ売りに行くんだ?」

 「……ビジネス、ですから」

 黒川はわざとらしく目を大きく見開いて、大げさに驚いてみせた。

 「へえー、そんなに金儲けがしたいんだ、航志朗くんは。自分の愛する妻を売ってまで。よっぽど岸家は金に困っているんだね。まあ、無能なお婿さんをもらってしまったんだから、それは致し方ないか。三十年以上も前に君のおじいさまが事業に大失敗して、ずいぶんと負債を抱えてしまったんだものね。それにしても、華鶴おばさまは本当にかわいそうなひとだよ。こんなに没落した家に嫁いで、跡取り息子まで産んであげたのに、正月に家にいられないなんてさ……」

 激しい怒りが安寿のなかにわきあがってきた。隣を見ると、顔を青ざめた航志朗が深々とうなだれている。

 冷たい口調で安寿は黒川に言い放った。

 「もうお帰りください、皓貴さん!」

 航志朗の前で黒川の名前を口にしてしまったことを安寿はまったく意識しなかった。その瞬間、航志朗の肩が微かに震えたことにも安寿は気づかなかった。

 そこへ岸がサロンに入って来た。その足取りは頼りなく顔色が悪い。岸は黒川に会釈すると安寿に言った。

 「安寿さん、皓貴さんをアトリエにご案内してください。あの絵は貴重な黒川家の着物をお借りして描いたものですから、ご当主にお見せしないと」

 仕方なく安寿は立ち上がって言った。

 「どうぞこちらへ。……黒川先生」

 航志朗が黙って安寿を見上げた。

 航志朗はサロンから出て行った安寿と黒川の後に続こうとしたが、岸に呼び止められた。

 「航志朗、先程、主治医と相談した。今日の午後から大学病院に行って検査入院をしてくる。その間、この家を頼む」

 一瞬、航志朗は全身を緊張させてから、落ち着いた声で言った。

 「承知しました。車で送りましょうか」

 「いや、それには及ばない」

 「……そうですか」

 黒川はアトリエに立て掛けられた岸の作品の前に立った。離れたところで安寿は黒川の背中を見つめていた。念のためアトリエのドアは開けたままにしてある。

 (あのひとはあの絵を見て、何を思うんだろう……)

 しばらく安寿の絵の前で腕を組んだ黒川は無言のままで立ち尽くしていた。やがて、黒川が口を開いた。

 「惜しいな……」

 向き直った黒川は安寿を見すえた。安寿の胸の鼓動が早まった。なぜだか胸の奥が苦しくなってくる。再び黒川はその独特な声で端的に言った。

 「君のことが惜しくなった」

 安寿はその言葉の意味がわからない。「どういうことですか?」と黒川に尋ねた。

 目を細めて黒川が言った。

 「わからないのか。君のことが愛おしくなった、……安寿」

 安寿は息を呑んだ。呼吸が苦しくなって今にも気を失いそうになる。あわてて安寿は悲鳴をあげるように叫んだ。

 「何を言っているんですか! 私は航志朗さんの妻ですよ!」

 「そんなことは関係ないだろう? 彼と離婚して、僕のところに来ればいい」

 「やめてください! そんなことを言われたら、もうあの襖絵を描けなくなるでしょ!」

 くすっとやけに上品に笑って黒川は言った。

 「あの森を彼が取り戻すチャンスを永遠に失うけれど、君がそれでもいいのなら」

 安寿は絶句した。

 (このひと、……真っ黒な悪魔だ!)

 「いったいこの絵にいくらの値がついたんだろうね。僕がその倍を出して買いたいと、華鶴おばさまに交渉しようかな」

 容赦なく黒川はにやりと笑った。

 (もういや。あのひとの顔を二度と見たくない……)

 目を両手で覆って安寿は床にへたり込んだ。

 安寿の前に身体を折り曲げて、黒川は油絵のにごったオイルをしたたらせるように言った。

 「安寿、待っているよ。君がまた僕に会いに来てくれるのを」

 手を伸ばして安寿の髪をなでると、着物をひるがえして黒川はアトリエから出て行った。

 床に安寿は突っ伏した。安寿の長い黒髪がアトリエの床に散らばった。

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