今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 パリに滞在している航志朗は、市内の中心部にあるリュクサンブール公園にやって来ていた。元老院が入っている宮殿の前の池には色とりどりのミニチュアの帆船がぷかぷかと浮かんでいる。池の周りではたくさんの子どもたちが歓声をあげながら長い棒で船をつついている。穏やかに晴れた日曜日の午前中の公園は平和そのものだ。

 だが、池のほとりのベンチに座った航志朗は暗い影を落とした表情をしていた。四月の新鮮な陽の光に水面はきらきらと輝いているが、航志朗の心にはそれが千本の針になって突き刺さっている。見えない血がしたたり落ちて、航志朗の足元に血だまりをつくった。

 三か月前、ここである男に航志朗の唯一の心のよりどころである安寿との未来を汚された。その男とは思いがけない場所で遭遇した。

 新しい年が明けてから一週間後、ようやく完成した岸の作品をアタッシェケースに収めて、航志朗はパリへと飛び立った。当初パリ経由でデュボアの待つニースに向かう予定だったのだが、直前にノアから連絡があって、ノアとパリで落ち合って作品を渡す段取りに変更された。パリでの定宿になったパラス級のクラシックホテルにチェックインすると、すぐにノアから連絡が入った。航志朗はセーヌ川左岸に位置するパリ六区にあるデュボア所有のアパルトマンを訪問することになった。

 到着したその日の陽が傾きかけた時間に、アタッシェケースと紙製の大きなショッピングバッグを手に持った航志朗は、高級アパルトマンの最上階の六階へ螺旋階段を登って行った。ノアから事前に、そのアパルトマンにはロマンと彼の実姉が暮らしていると聞いていた。ロマンと彼の姉は、パリでそれぞれ音楽とファッションの専門教育を受けているという話だった。十八世紀に建てられたという瀟洒なアパルトマンのエントランスに常駐するコンシェルジュから、到着した旨をすでに伝えてもらっている。重厚なドアの前でノアが待ち構えていた。両手を広げたノアは懐かしそうな表情をして航志朗を出迎えた。

 「コーシ! パリへようこそ!」

 「お久しぶりです、ノア!」

 航志朗とノアは固い握手を交わした。ノアは航志朗をサロンに案内した。サロンにはひと目で誰が描いたかがわかる名だたるフランスの画家の作品が数点飾ってあった。どれも品よくシンプルな明るい絵ばかりだ。それらは自然に調和してこのサロンを温かい雰囲気にしている。

 米国製のグランドピアノも置いてある。航志朗は安寿を膝にのせてピアノを弾いたひとときを思い出して胸が苦しくなった。甘いメロディーに耳を傾けてうっとりと頬を紅潮させた安寿は何回も航志朗にキスしてきた。胸の内で航志朗は偉大なる作曲家に多大な感謝をした。

 航志朗は銀座の老舗子ども用品店の紙袋をノアに手渡した。

 「あなたがたのお嬢さんにプレゼントです。アンジュと選びました」

 礼を述べたノアが中に入っている箱のリボンをほどいて開けると、きれいな水色のドレスが出てきた。一緒に蜜蝋クレヨンも入っている。どちらもメイドインジャパンだ。ノアは嬉しそうだが困った様子で言った。

 「彼女は一歳三か月になるのですが、まあ元気なおてんば娘で、毎日、目が回りますよ」

 エントランスから急いで走り寄って来る足音がしてきた。航志朗は微笑んだ。ドアが開くと「コーシお兄さま!」とロマンが大声をあげて抱きついて言った。

 「お久しぶりです。またお会いできて嬉しいです!」

 前回ニースで会った時よりもずいぶんと大人びて背も高くなったロマンが行儀よくあいさつをした。ロマンの後ろから彼の姉が入って来た。安寿と同じくらいの年頃の印象派の絵画から抜け出して来たような美しい女だ。金髪のロマンとは違う色のブルネットの髪を後ろにはらって、ロマンの姉は「アンヌ」とゆっくり名乗り、上品に航志朗の両頬にビズをした。慣れた様子で航志朗もかがんで直接唇はつけずにビズをアンヌに返した。

 「今、お姉さまたちを学校(エコール)に迎えに行っていたんです」とロマンは言ってにっこり笑った。

 (……お姉さまたち?)

 航志朗が不思議に思っていると、開いたままのドアから音を立てずに黒髪の男が入って来た。思わず航志朗は目を見開いた。無表情に男は航志朗に会釈すると日本語で素っ気なく言った。

 「岸さん、ごぶさたしております。安寿は元気にしていますか?」

 「君は……」

 航志朗はすぐにその男の名前が出てこない。

 男は自ら名乗った。

 「星野蒼です」

< 354 / 471 >

この作品をシェア

pagetop