今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿の自宅は十階建ての建物の四階にあった。ふたりはエレベーターに乗って四階に上がった。安寿と航志朗は、安寿の家の玄関ドアの前に立った。思わず安寿は自分よりずっと背が高い航志朗を見上げた。航志朗は安寿に微笑んでうなずいた。一度深呼吸をして、安寿はドアホンを鳴らした。すぐに恵が玄関ドアを開けて出てきた。

 「恵ちゃん、ただいま」

 怪訝そうな表情で恵は並んだふたりの姿を見た。そして航志朗の方に会釈してから、安寿の包帯が巻かれた左足をじっと見て言った。

 「安寿、いったいどうしたの?」

 「あの……」と安寿が言いかけると、突然、航志朗が口を開いた。

 「安寿さんの叔母さん。私は以前ごあいさつさせていただきました岸航志朗と申します。本日の正午前に黒川画廊の近くで私が突然安寿さんを呼び止めまして、それに驚いた安寿さんは転んで捻挫してしまいました。彼女がけがをしたのは私のせいです。この度は大変申しわけありませんでした」

 そう言うと航志朗は恵に深々と頭を下げた。
 
 航志朗の率直な態度に面食らった恵は、「ええと、とにかく中に入ってください」とあわてて言い、ふたりを家に招き入れた。

 南向きの八畳ほどの明るいリビングルームに入り、航志朗は安寿と並んでソファに座った。部屋は掃除が行き届き、ホワイトとベージュ系でまとめられていて居心地がよい。二枚の小さな風景画が壁に飾られているが、安寿が描いた絵ではないと航志朗はすぐにわかった。恵が三人分の緑茶を淹れてきて、ローテーブルの上に置いた。三人の間には、しばらく沈黙の時間が流れた。
  
 航志朗は初めて明るいところで恵を見て思った。

 (きれいな(ひと)だ。理知的で生真面目そうな。それにどう見たって、安寿とは姉妹にしか見えないな)
 
 安寿は座布団に座ってうつむきかげんで緑茶を飲む恵を見た。なんだか今日の叔母はいつにも増してきれいだ。恵は薄化粧をして、よそいきのネイビーのワンピースを着ている。耳には、昔、渡辺にプレゼントしてもらったというダイヤモンドのシンプルなイヤリングをつけている。

 そして、安寿は気づいてしまった。恵の目元が赤く腫れていることを。自分が外出している間、きっとひとりで泣いていたのだろう。安寿の決意はここにきて最終的に固まった。

 (恵ちゃんには、優仁さんと結婚して幸せになってもらう。そのために私はどうなっても構わない!)

 安寿はソファを下りて左足を投げだしつつも床に座り、突然、恵に言った。

 「恵ちゃん、あのね、私、岸さんと結婚する。もう決めたの」

 顔を上げて恵は絶句した。恵が持っていた湯呑みの中の緑茶が揺れて、ローテーブルの上にこぼれた。

 「けっ、けっ、……結婚!?」

 「そう。だから、恵ちゃんも優仁さんと結婚して、一緒に北海道に行って幸せになってね」

 航志朗は安寿の凛とした横顔を見つめて思った。

 (「私、航志朗さんと結婚する」じゃないか? ……まあ、いいか)

 恵の顔色は真っ青になって、その目にはみるみる涙がたまっていった。恵は悲痛なまなざしで安寿をにらみつけて大声で怒鳴った。

 「あ、安寿、あなた! あなた、まさか、妊娠したって言うんじゃないでしょうね!」

 安寿はその言葉を聞いて凍りついた。

 (そんなこと、絶対にないのに!)

 安寿の身体は震えて言葉が出なくなってしまった。
 
 安寿と恵は膠着状態になってしまった。気まずく張りつめた空気が流れる。

 (やっぱり想定通りのシチュエーションになったな。そろそろ俺の出番だ)
 
 航志朗はネクタイを整えてソファを下り、恵の前に正座して座った。そして怒りと悲しみでいっぱいの恵の目をまっすぐに見て、航志朗は一気に言い切った。

 「安寿さんの叔母さん、私の話を聞いてください。私は、二年前、父のアトリエで初めて安寿さんと出会った時から、安寿さんを心から愛しています。実は、私はずっと安寿さんとの結婚を考えていまして、彼女が学業を終えるまで待つつもりでいましたが、今回、安寿さんの叔母さんのご事情を聞くにおよんで、彼女に結婚を申し込みました。もちろん、安寿さんには承諾していただきました。また、安寿さんは妊娠などしていませんし、そもそも、私たちは妊娠するようなことはいたしておりません。私は、安寿さんを一生大切にします。私は、安寿さんを一生、全身全霊でお守りします。どうか、私と安寿さんとの結婚をお許しください。お願いいたします」

 そして、航志朗は恵の前で土下座した。

 航志朗の長々とした甘過ぎるもの言いにあっけにとられて安寿は思った。

 (このひと、すごい。大うそつきだ……)

 恵もまた航志朗の情熱的な申し出に呆然自失となっていた。そして、恵はすでに感情の抑制が効かなくなっている自分がどうしようもなくなってきて、ついに涙をぼろぼろこぼしてつぶやいた。

 「私、優ちゃんのところへ行く……」

 航志朗は「承知しました。では、私が車で送りましょう」と言って、今、彼が守らなければならない目の前の二人の女を自分の車に丁重に乗せた。

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