今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 華鶴の車の後部座席に安寿と航志朗は乗り込んだ。力強く航志朗は安寿の肩を抱き寄せた。安寿は航志朗の胸に目を閉じて寄りかかった。航志朗は華鶴の後ろ姿を険しい目つきで見つめながら、安寿を抱きしめていた。安寿の身体はひどく冷えきっている。白いジャケットのオープンカラーの下から黒いしみがついた安寿の素肌が見える。安寿は男物のパジャマのズボンを穿いて裸足でスニーカーを履いているだけだ。

 三人はずっと黙ったままだった。やがて、華鶴の車は航志朗のマンションに到着した。すでに日付が変わっている。何も言わずに安寿を支えて航志朗は車を降りた。ふと思い出したように、航志朗の背中に華鶴が言った。

 「安寿さんをお願いね、航志朗さん」

 まったく同じ言葉を、昨年の夏に古閑ルリから言われたことを航志朗は思い出した。

 (ルリさんも知っていたのか? 安寿が自分の兄の子どもだって……)

 昨年の夏の熊本での不可思議な出来事が次々に航志朗の脳裏に浮かんだが、それを実証するには航志朗は疲れすぎていた。何も言わずに航志朗は華鶴の車のドアを閉めた。安寿と航志朗の目の前でカーマインレッドの華鶴の車は走り去って行った。

 マンションに戻ると、すぐに航志朗はバスタブに湯を張った。安寿はソファの上で横になっている。安寿の足元には洗濯をしていないままの彼女の服が積み重なっている。安寿は起き上がる気力もない様子だ。航志朗は安寿にミネラルウォーターを飲ませた。喉が渇いていたらしく、ごくごくと喉を鳴らして大量に飲んだ。

 航志朗は安寿を支えてバスルームに連れて行ったが、黙ったままの安寿はその場にしゃがみこんだ。航志朗は「俺が手伝うから、風呂に入ろう」と声をかけて、安寿が着ている服をゆっくりと脱がした。たったの三枚だけだ。うつむいた安寿は裸になった身体を微かに震えながら両腕で隠した。航志朗は服を着たまま安寿を抱き上げて、シャワーで安寿の黒く汚れた身体を洗い流した。薄まった墨色の液体が安寿の足元から排水溝に流れていった。また安寿を抱き上げてバスタブの湯に浸けると、タオルを湯の中の安寿の身体に包むように掛けた。アイスランドでクラウスを風呂に入れた時にアンナから教わったのだ。

 「ベビーをバスタブに入れる時は、身体にタオルを掛けてあげてね。その方が安心するから」

 航志朗は心のなかで遠く離れた場所にいるアンナに感謝した。だんだん安寿の肌が赤みを帯びていった。ほっと息をついて航志朗はバスルームから出て行こうと立ち上がったが、安寿が航志朗の腕を力なく握った。何も言わないが「行かないで」とその目が言っている。服を濡らしたままで航志朗はバスタブのそばにしゃがんだ。湯に浸かって目を閉じた安寿を見つめて航志朗は思った。

 (安寿と皓貴さんの間に何が起こったのか、俺は尋ねない。とにかく安寿と無事に帰って来られた。ただそれだけでいい……)

 目の前で安寿がバスタブのふちに手をついてゆっくりと身を起こしたが、ふらふらしてバスタブをまたぐ力もない様子だ。航志朗はまた安寿を抱き上げてバスタオルに包んでからソファに運んで行った。

 着替えさせようにも、安寿の着替えが見当たらない。航志朗はスーツケースを開けてパリのホテルのクリーニングに出した自分のパジャマを取り出して安寿に着せた。パンツがないがそれは仕方がない。航志朗はドライヤーを持って来て、安寿の長い黒髪を乾かした。ずっと安寿は目を開けてはいるが、何も見ていない空虚な瞳の色をしている。航志朗は胸がひどく痛んだ。安寿の前にしゃがんで安寿の髪をなでる。今すぐに安寿を抱きしめたいが、航志朗の服はびしょ濡れだ。その時、安寿が何か言った。

 「ん? なんて言ったんだ、安寿?」

 安寿は微かな声で言った。

 「……こ、航志朗さんも、……お風呂に」

 「ああ、そうだな。すぐ戻って来る。ちょっと待ってて」

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