今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その年の九月に入った。安寿は航志朗のマンションのウォークインクローゼットに置いてある姿見の前で白い半袖のリネンワンピースに着替えた。薄化粧をした自分の顔を鏡に映すと、口角を上げて笑顔をつくった。少し頬が引きつるのを感じるが、無理やりその表情を持ちこたえる。黒いコットンガーディガンを羽織って安寿は一階に降りた。リビングルームでは航志朗がソファに座ってスマートフォンを操作していた。

 「お待たせしました。航志朗さん」

 航志朗の前に立って安寿が声をかけると、安寿を見上げて航志朗は顔を赤らめた。

 「化粧したのか、安寿……」

 「はい。デートですから」

 そう即答した自分に安寿は顔が熱くなった。

 「行こうか、安寿」

 航志朗は安寿に手を差し出した。安寿は首を傾けて微笑んでから航志朗の手を握った。思わず航志朗は胸をどきっとさせた。

 マンションのエントランスで小気味よい音を立てて掃き掃除をしていた管理人の高羽に会った。あいさつを交わすと高羽が目尻にしわを寄せて言った。

 「岸さま、ご夫婦でデートですか。今日は良いお天気になりそうですね。どうぞ楽しんできてください」

 同時にふたりで赤くなりながら、安寿と航志朗は高羽に会釈した。ふと北海道の山奥の秘湯で出会った白い老婆の姿を安寿は思い出した。安寿は一度振り返って、また掃き掃除をしはじめた高羽の後ろ姿を見た。

 安寿と航志朗は手をつないで地下鉄の駅に向かった。頭上の空は爽やかに晴れ渡り、ちょうどよい気温だ。麦わら帽子を被っていても、数週間ぶりのまだ夏の盛りが残る太陽がまぶしすぎる。安寿は目を細めた。航志朗はまだ完全に体力が回復していない安寿の歩調に合わせてゆっくりと歩いている。そのさりげない優しさが嬉しくて、思わず安寿は航志朗の腕に麦わら帽子のブリムを潰しながらしがみついた。それに気づいた航志朗は顔を赤らめて安寿を見下ろした。安寿の表情は麦わら帽子にさえぎられて見えない。航志朗は自分が胸をどきどきさせていることを自覚した。

 (中学生の初デートじゃあるまいし、俺は来年には三十になるんだろ、落ち着けよ)

 在来線に航志朗と乗車するのは初めてだ。ドアの前に立った安寿は地下鉄の中で航志朗と手をつないだままでいいのか考えたが、まったくわからなかった。いちおう安寿が航志朗とつないだ手を離すと、あろうことか航志朗が肩に腕を回してきた。抱かれた肩をすくめて安寿は思った。

 (航志朗さんたら、ここ、日本なのに)

 ドア付近に座っているいかにも寝不足ぎみのサラリーマン風の男にじろっと見られた。安寿は身が縮む思いをした。一つだけ席が空くと、航志朗は安寿を座らせてその前に立った。反対側の席の後ろの真っ黒な窓ガラスに、座席に座る自分の姿とその前の吊革につかまった航志朗の後ろ姿が映っているのを見て、安寿はなんだかとても不思議な感じがした。

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